メロディ・ゴウズ・



メッシュが好きですか、ゴムが好きですか。
そう聞かれれば、犬飼は断然メッシュ派だった。
このクソ暑い夏の最中だ。髪が濡れることに、何の不都合があろう。
むしろ大歓迎で、昨日の今日まで、中学時代から愛用してきた白のメッシュ帽で夏の体育の授業に臨んできた。

けれど今この時、犬飼の左手が固く握り締めるそれは、新品の空色が眩しいゴム製の水泳帽だった。
それを心底うんざりした表情で見やり、辰羅川は短く言を次いだ。

「過度な期待と身の丈に合わぬはしゃぎっぷりは、ただ周りに痛々しさを露呈するだけですよ」
「……とりあえず、これは俺の問題だ」

関係ねぇヤツは黙ってろ、と言外に蔑ろにされ、けれど辰羅川は静かに微笑む。

「ですね。 では私は、1mgも関与しない方向で」

云い捨てると辰羅川は切りたてのうなじも爽やかに、屋外シャワーへと続くフェンス扉へ歩を向けた。
続く犬飼に動揺はない。辰羅川の怒りを物ともしないのではなく、そもそも気づきもしないのだから話にならない。
左手の親指の腹でぎゅーむぎゅーむと水泳帽をしごきながら、犬飼の頭の中は、猿野への復讐でいっぱいだった。





事の発端は、先週の水曜5限。
今日は、初夏の風をスケッチしてもらいましょうか。
悪気はないであろう初老の美術教師がそう微笑んだ為、犬飼と辰羅川は7月の晴天の下に日陰を求めてしばし彷徨い、やがてプール脇へと腰を落ち着けた。
さて、私は花壇を通して南校舎でも。
そう呟いて辰羅川がクロッキー帳をめくった矢先、バシャ、という水音とともに、何故か開いたクロッキー帳に水滴が飛び散った。

まさかその時間が、B組の体育の最中だとは知りもせず…知っていたとして。

ひひひひひ、と背後から聞こえる下卑た笑い声に、辰羅川がゆっくりと左隣の犬飼へ目をやった。
果たして、そこにはびしょぬれの犬飼が固まっていた。
プールに背を向けたその姿勢のまま、クソ猿、と低く呟いたかと思うと、次の瞬間身を翻しフェンスごと殴りかかろうとするも、当然猿野にあっさりと避けられる。
その上で、ゴム帽をこれ見よがしにちらつかされたからたまらない。
怒りのあまりフェンスを乗り越えんとよじ登りかけたところで、騒ぎを聞きつけた体育教師の岡本に金網越しにビート盤で叩かれ、我に返った犬飼をB組全員がニヤニヤと遠巻きで見物していて。

「バカが。 背後取られる方がマヌケなんだよ。 ダッセー」

水の滴る冥きゅんもすごぉくセクシーよ?
腰を振りながら去ってゆく猿野の背に歯軋りして、犬飼がその日のうちに近所のダイエーの水着売り場にひた走ったとして、何の不思議があろう。
我々が体育の時に猿野君も選択美術で戸外をうろついているわけないでしょうが、と勝手に同行した辰羅川が横でぶつぶつ小言を繰っていたが、知ったことではなかった。
残りの3年間の全ての水泳の授業時間を掛けてもいい。
たとえ校庭の端だろうがヤツの姿を見かけたら最後、海パン一丁でグラウンドを突っ切ってでも追い掛け回してやる、とひとりごちて、犬飼は鼻息も荒く、ゴム製の水泳帽をレジへ突き出したのだった。





人工的な波の揺らぎに、目を細める。
極めて平和な水泳授業だった。待てど暮せど、茶色いちんくしゃ頭は影も形も見当たらない。
フェンスにもたれて順番を待つうちに、やはり頭の中が蒸れているような不快感に襲われる。
チクショウあのクソ猿が。
もう世界中の不都合何もかもが彼の仕業のような気がして、犬飼は項垂れた。

関わらなければいいのだ。
関わらなければ正解なのだと、自分だってよくわかっている。
わかっているのに、たかだか仕返しのひとつにすら躍起になってしまう自分がいる。


―――もっとこう、普通な感じになってもいんじゃねぇの?


ふいに、えらそうな猿野の声が、犬飼の耳を打った。


―――おまえ、変につっかかってくるばっかで、もうちょっとこう、普通にオレと関われねぇの?


そう猿野がくさっていたのは、つい最近の部活帰りだった。
自分の素行は棚に上げ、道中のコンビニで買ったパピコをしゃぶりしゃぶり説教たれる猿野の後ろ背に、あの時は一瞬、犬飼も思うところがあったのに。

(そんでテメェから仕掛けてきてんだから、世話ねぇし)

はぁ、と深く吐息をひとつ、犬飼は目線を上げた。
目を細め、新校舎4階の右から2番目の教室をひっそりと伺う。
不真面目な茶色い頭が舟を漕ぐ様が見えたような錯覚に陥った、その時だった。





…………ガサッ。





背後に小さく、ビニール袋の鳴る音。
続くひそひそ声に馴染みを覚えて、犬飼の体が強張った。



「……違ぇよ………の袋を先に…」
「………待ってろって……で、………だから…」



グラウンドに面していないプールフェンスの向こうでは、雑草や植木に紛れて、人影がふたつ。
そろりそろり、膝立ちでプールの縁に進むと、犬飼は被っていたゴム帽をゆっくりと脱いだ。

だってもう、間違いがない。
我々が体育の時にも猿野君とやらが選択美術ではないだろうが(明らかに授業をサボった気配がある)戸外をうろついていらっしゃったのだ。



「ちょい待ち……ん、……をかけて…」



水を湛えたゴム帽は、健気なほどに重たかった。プールの隅のほうには枯葉や虫の死骸なんかも浮いていて、ああ自分はこれを浴びたのだ、と思うと、募る思いは倍に膨れ上がった。

二番煎じが何だ。どこかの偉い人だって云ってたじゃねぇか。
目には目を、歯には歯を、



「……俺が持……あ、バカ、天く」
「ふごわぁぁぁぁぁぁぁ!?」




………………………ゴム帽には、ゴム帽を。




「に……?」
「…………う……ぁ…?」




ザマぁねぇな、サボり猿。
拳を握りグッと脇を締めるとそう揶揄ろうとして、……けれど犬飼は、硬直した。
犬飼の奇襲を受けて猿野の足元に飛び散ったのは、プールの水だけのはずだった。


なのに、どうして。


夏草茂る土の上には、無残に投げ出された千切りの胡瓜。
半熟卵、錦糸卵、蒸し鶏に焼き豚、赤が鮮やかな紅生姜。
艶やかな麺と、それらが漬かる予定だった涼やかな水色が香ばしい鰹出汁、鰹出汁、鰹出汁……。

「ひでぇ……オレの…オレの冷やし中華が…ファミマのこだわり麺工房430円が…」

濡れたシャツと前髪を張りつかせたまま、呆然と猿野は犬飼を見上げた。

「………」
「……マジで?……まだ一口も食ってないんですけど」
「………」
「沢松からの、誕プレだったのに……?」
「………」

呟く猿野の声は掠れていた。それは犬飼には初めて聞く種の声だった。
いぬかい、と猿野の口が動いた。声は聞こえない。だけど口がなぞる。
コゲ犬、でも、ヘタレ、でもなく、いぬかい、の動き。

「………」

こんなはずではなかった。
ここで猿がずぶ濡れになって、それを指して自分は笑う予定だったのに。
怒り狂った猿を横目に、悠然と平泳ぎのひとつでもかましてやろうと思っていたのに。

「………」

思惑通り、猿野はずぶ濡れになった。だけどダメだった。怒り狂ってくれない。
ポタポタと前髪から虫の死骸の入ったプールの水をたらしながら、驚いた拍子にぶちまけてしまった冷やし中華の容器を大切に抱えて、ただじっとこっちを見上げている。

何だその目は。同じことを仕返しただけじゃねぇか。なのに、なんだってそんな目でこっちを見る。

犬飼の方こそ泣きたかった。何だこの間、この沈黙。
この際、いつものキモイ女装でも何でもいい、何でもいいからつっかかって来いと、心中で泣き喚いた。

あぁそうだ。自分は猿野と普通になんか、関われない。
だから、そんな目で自分を見ないでほしい。



「……とりあえず…」



ごめんなさい、と、おめでとう、の二文字が、くるくると頭の中でワルツを踊る。
どちらも一生自分と猿野の間には不必要な言葉のはずだった。おろおろする犬飼を捨て置き、ごめんなさいとおめでとうのステップは加速する。三拍子を無視してサンバのリズムを刻みだしたかと思うと、大きくターンを決めてパソドブレの構えに入った。



チクショウ、何で辰が向こうで平泳ぎかましてるんだ。何のためのキャッチャーなんだ。
拾ってくれ。俺が投げたもの、全部拾ってくれ。
球もゴム帽もその中の水も考えなしな行為も何もかも拾いやがれコンチクショウ!



常にない猿野の様子に、思考も瞬きも呼吸すら停止した犬飼の背後から、

「またお前らか犬飼ッ!猿野ッ!! お前たち罰として――――――」

岡本のがなり声だけがわんわんと鳴り響き、プールの水面を滑って行った。




→第二話へ


淡い恋の真ん中を泳ぎきってみせてよ、が、テーマ。