メロディ・ゴウズ・オン |
きゅーっと縮んだゴムキャップを手に呆然と立ち尽くしていた。 猿野と沢松は一瞬凍った後、遅れやっててきた条件反射で音もなく逃げた。美しい逃げっぷり。 はーっ、と、感嘆と諦念と呆れの混じったため息を岡本が吐くのを耳の後ろ、下方向に聞いて、は、と我に返れば、 チビの(犬飼に比べれば)マッチョ教師が、 しっとりと、 犬飼の腕を掴んでいた。 その感触のあまりのキモさに思わず腕を振り上げ、下手投げ100キロ越えが常識の右手で、アッパーを食らわせてしまった。 「へぶっ!」 お笑い番組でよく聞くような素敵効果音を発して、鼻血を吹いて倒れた体育教師岡本、37歳だった。 授業は数学。 まだ湿気の残るゴムキャップを、机の上に置き。 ちょき。ちょき。ちょき。ちょきちょき。 閉じたままの教科書の上には、いつもロッカーに装備してある「おどうぐばこ」。 犬飼は、野球以外のことに関しては忘れ物の多い男だった。それを承知の母親と辰羅川がいつでも余分な備えをさせているため、彼の生活は他人よりも便利で快適である。のり、はさみ、セロテープ、ホチキス、ホチキスの10号針、二つ穴パンチ、どでか消しゴム、予備のえんぴつ、予備のえんぴつ削り。三角定規と分度器・コンパス。新品の筆。彫刻刀は入っているがカッターはない。絆創膏はサイズが五段階。アイシングスプレーにテーピングテープ。もしもの時のテレホンカードおよび十円玉。保険証のコピー。白いゴムひもとひも通し。先日美術の授業で作ったミニ万華鏡。裁縫セットは本人が使えないから入っていないが。 クラスの間では、ひそかに「四次元おどうぐばこ」と呼ばれている。 そこから出てきた布切りバサミ(紙を切るやつとは違うのだ)でもって、ちょきちょきと。 一回使用したきりの新品ゴムキャップが抹殺されていた。 胡乱な目で一心に水泳帽を刻む犬飼に、数学教師は気づいていながら何も言えなかった。気味が悪すぎて。 同じ理由で、辰羅川を含むクラスメイトの全員が、彼を、シカトという行為でもって労わっていた。 伸縮性に富んだ布を、ただの伸びるひもに変えながら、犬飼は呆然と自分を見上げていた猿野を思い出す。 あれの誕生日だったなどと、もちろん知らなかった。知っていたとて今日の行為を止めはしなかったろうが。 見開かれた目、薄く開いた唇。わずかに震えて、かすれた声。 あれは、やりすぎだったろう。 いや同じことをやり返しただけだが、しかし悪かったろう。謝るべきだ。 カラン、とはさみを取り落とした。 さっ、と教室中が振り返り、またさっ、と目を逸らす。 謝る? 謝るだコラ謝る? 猿にか? あの猿にか? オレが? このオレが? 「オレは、誰だ……」 こぼれた呟きをクラスの半数が拾って、ある者はチョークを折り、ある者はズッこけ、ある者は怯え、ある者は音を立ててフリーズし、ある者はメガネを鼻からずり落とした。 わしっ。と千切りにしたゴム布を掴んで犬飼は打ち震えた。 自分が猿野に謝る、という有り得ない場面を想像し、あまりの屈辱に胃が燃えそうだと思う。 あいつにだけはごめんだ! しかし、何故、自分は猿野にだけこんなに拘ってしまうのだろう。 やりすぎた、悪かった、と一言言うだけだ。弁償しろと言われたらすればいい。430円は少なくはないが、痛いほどでもない。 それでチャラだ。この件は。チャラになるはずだ。あいつはオレと違ってケジメさえつければ根に持つタイプじゃない。 あっさり忘れたように振舞ってくれやがるだろう。それを多分、自分ばかりが引きずるのだ。 期待した爽快感を得られなかった心残りや、初めて見たあんな顔を、いつまでも気にして。 「なんでこうなるんだ……」 解決するべき問題だということだけは解る。 が、どうしたらいいのか、全くわからない。 本日何度目になるかわからない哀れみの眼を犬飼に向けた辰羅川は、自慢の美しいメガネにホワイトクラッカーを拭きつけて見えなくしてしまいたくなった。 全体的に机からはみ出す長身の男は、難しい顔をしながら、手に張り付いたゴムキャップの成れの果てをちまちまと編みこんでいた。 放課後、岡本に呼び出された。まだ少し鼻の頭が赤く、今日こそは説教してやると顔に書いてある。体育教官室は体育館の二階。部活の準備を始めたバスケ部の声が壁一枚隔てて響いている。 猿野も一緒に呼んであるのだと言われてとっさに逃げようとしたが、用具室のカギをとりに来た女子バドミントン部の集団がドアを塞いでおり適わなかった。カギ1コ取りに来るのに何故群れて行動する必要があるんだちくしょう。 「まあ座れ」 岡本に促されて座ったパイプ椅子。丁寧に隣にもう一つ並べてあった。 並べってのか。猿と。 頭を抱えたくなる。 あいつが来たところで何を言えば、どんな顔をすりゃ、いいのか。 何かしなけりゃならないが、自分には何もできまい。どうすりゃいいんだ。 ここが小学校であったら。 先生が仲直りしましょうね、はい握手。とか促してくれように。 それで自分はごまかせたろうに。 詮無い逃避をする犬飼の耳に、失礼しまーすという聞き慣れた声と、指導室の扉を開く音が聞こえた。 どうしろ感、満載。 |
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