傍目に見ても、兵庫から帰ってきてからこっち、犬飼はかなり有頂天だった。つまり思い上がっていた。
 気力充分、毎日気持ちよく投げまくった。最近調子がいい、とか部室で自慢もしていた気がする。結果、軽く肩を痛めた。しかもそのことにいつまでも気づかないで、試合に出た。おかげ様で、秋季県大会、江戸桜高校にボコボコにされた。
 交代した子津の奮闘と打線の援護もむなしく、十二支は二回戦であっさり負けた。(ちなみに一回戦の相手は兄御田学園だったので、ぶっちゃけ気分的には初戦敗退だ)
 ワイルドジョーカーズ世代亡き今(死んではいないが)のセブンブリッジに代わって、我こそが埼玉2強の一翼と信じて疑わなかった十二支の面々の落胆は実に酷かった。誰もが春の選抜を思い描き、関東大会に進んで大暴れするつもりだったのだ。それが埼玉から外に出ることもかなわなかった。


「これは教訓っすね」
「初心に帰れってことだNa」

 というわけで、気持ちを切り替えて“改めて”「古豪復活」を掲げ、彼らはいっそう練習に身を入れていた。のだが。
 まあ、辰羅川の心中が未だ穏やかでないのは致し方のないことだ。誰もそんなふうに押し付けたことは思わないし言わないが、正味7割方犬飼のせいで負けたようなものだし。



「馬鹿ですよばか。ばーか。」

 もはや崩れるままに荒れることにしたのか、知性も品も落ち着きも殴り捨てた辰羅川だ。
 いやこういうの、普通の高校生っぽくて悪くねえよ? と思いつつ、猿野は彼の嘆きを正確にキャッチした。


 あそこまで、行ったのに。
 あんなに、暑い夏を越えたのに。


 そういう悔しさを、誰もが抱える悔しさを誰よりも重く感じているのが辰羅川じゃないだろうか。思いがけないチャンスとして降って湧いた県対抗甲子園大会。自身は選ばれなかったけれど、犬飼のために、選出されたメンバーと変わらぬ努力をした。


「自分の体のことくらい自分でわかれってゆーんです。外から見てる方より本人のほうがよく判るのに決まってるじゃないですか。毎日毎日そりゃあたのっしそーに投げたい投げたい投げさせろって言われたらそりゃ投げさせるに決まってるじゃないですかボールと戯れてる時にしか可愛げなんかないんですからねええ言うなれば唯一人間らしい? むしろ動物らしい? 有機物らしい? そういう時間でしょあれにとっての投げてる時って。人として取り上げるわけにいかないじゃないですかというかそういう時間を保護してきてやったわけですよ私はずっとずっとずっと、ええそうずっとですよ」
「そう、だろうなあ」
「ええそうです」
「大変だよな、たっつん」
「たいへん……」
 遠い国の言葉のように呆然と「たいへん」と繰り返す。呆然と、いや悄然と。
「そうだぜたっつん、大変だぜ、そういうの」
「ですよ、ねえ……」
 まるで今初めて知ったと言わんばかりの顔だ。一生懸命すぎるとこうなるよな。猿野は冷静に、親しみを込めた目線をこころもちへしょげたモミアゲに向ける。
 アイデンティティでもある磨き上げられた眼鏡の奥は、対照的にぼんやりと曇っていた。

「野球さえできれば、ってあの人。私、言いましたけど」
「うん?」
「もしかして、自分だけじゃ野球もできないんですか?」
「…………うーん……」

 否定できなくて思わず猿野は苦笑する。辰羅川には、1ミリも笑えないことだろうが。


「別に私は、そんな犬飼君でも」 言いながら首を傾げる。「構いません……でしたよねえ?」
「……ん、傍から見てそゆのはダメでも、オレらがダメだろっつっても、たっつんはそれでよかったんだろ」
「そうだった、はずです」
「うん、だよ」
「それでは、何故」
 呟くと、じっと机を睨みつけて黙った。



 思えば、県対抗戦が終わってから、犬飼と辰羅川の関係というか距離感といったもの、は、少しだけ変化していたように感じる。変わったのは多分辰羅川のほうだ。犬飼は調子に乗っただけだから。
 周囲はそれを特別に感じることはなく、なんとなーく、少しはお互いに自立したことにしたのかな、悪くない変化じゃないの、くらいに好ましく見ていた。
 二人が目指してきた大神と言う人について、猿野は辰羅川から聞かされたし、御柳や白雪からも聞いていてそれなりに把握している。大神の相方であった白雪が、犬飼を育てながら、一方で自身の持つものを多く、辰羅川に伝えていたことにも気づいている。辰羅川が白雪に多くの感銘を受け熱心にそこから吸収していたのも。
 白雪のような捕手になりたい、と思ったかはわからないが。しかし、白雪との出会いは大きく、辰羅川なりに目指したいものが見えたのかもしれない。目標を得た人間は確実に変化していくものだ。

 つまりは、犬飼が「大神さん」を追っかけるのの伴走というだけでなく、自分自身が一人のプレイヤーとしてこれからどうしていくか――とまで言ってしまうのはいささか性急だが――そんな領域に近づいている、そんな雰囲気がかすかに辰羅川には生まれている。……んじゃあないかというのが、猿野の漠然とした読みであった。

 ところが犬飼の内面は、他のチームメイトたちに多少開かれてきた感はあっても、辰羅川に対しては全くといっていいほど変わっていない。もちろん変わっていないという自覚もない。おそらく何も思っていない。
 相変わらず、セルフコントロールはてんでダメ、おんぶにだっこで辰羅川に依存している。別に辰羅川としてはそんな犬飼を厭うわけでなし、今までと変わりはないのだから負担でもない。ただ釈然としないものを感じてしまう――そんな感じだ。常に二人三脚で歩んできた二人だから、自分が変わっていくのに相方に変化がないというのが気持ち悪いのかもしれない。


 とにかく、辰羅川は犬飼に対してストレスが貯まっているようだった。



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