キャプテン、知ってる?
 ボールって恋の味するんすよ。
 え、流石の僕もボールを舐めたことはないなあって?
 ウッソ、だってキャプテン、ボールの写真でオナニー……ごめんごめんごめんなさい!
 その笑顔やめてくださいよ、マジで。
 ってゆーかこのテのギャグ最初にかましたのキャプテンでしょー……
 いやだからその笑顔やめてぇー。
 うん?
 猿野君はあるのかいって?
 うん。あるんですよ。一回。
 えーとあのちょっとドス黒い殺気が背後にチラチラと……
 あのふざけてたとかじゃなくて、その、切なくて。
 うん。切なくて。
 どんな味だったかって?
 何気に興味津々じゃないですか、自分で味見してみたらどうすか?
 え、やだ?
 やだってアナタ、愛しの白球でしょうが。
 え、え、ほんとにやるの?
 ああああちょっとやめてやめてそんなウットリした顔とかあわわわわわそれは可愛い女の子にするキッスでしょうが!
 …………はー。
 ほんとキャプテン冗談上手くなりましたよね。
 なんだかなー。




「あ、交代だよ。この回で終わりだね」

 促されて見上げたスクリーンでは、九回の守備につこうとぱらぱら走る選手たちが映し出されていて、その一番後ろを犬飼が淡々とした表情でマウンドに向かっていた。
 チームの順位はもう決定してあとは消化試合と、見る方としては肩の力の抜けた試合。
 地方の球場でのゲームなもんだから、まあ家のテレビでまったり見るかと思っていたのだけれど、そういえば犬飼には初シーズン最後の先発かと思ったら、ささやかなサイズのテレビで見るのはなんだか嫌だなと思って、自分専用のホームシアターをお持ちの牛尾先輩宅に無理矢理押しかけた。
 5.1ドルビーサラウンドはあまりにも臨場感盛り上がりすぎてかえって淋しいので普通の設定にしていただいた。
 壁一面のスクリーンをただのでっかいテレビにして、ソファーの上にオヤツとツマミを乗せて、豪奢な絨毯に直接座り込んで観戦。
 牛尾先輩も一緒に床に座り込んで、優雅にワインを飲みながら明日提出だというレポートだか論文をめくっている。
 ほんとはそんなもの完璧に終わっていて確認する必要もなくあとは出すだけなのはオレにもわかる。特別お構いはしないからいつでも気軽に遊びにおいで、というポーズ。そんな牛尾先輩がオレは大好きだ。

 あー、とか、おー、とか、見ているうちに、ツーアウトで打者は三人目。
 ストライク、ボール、ストライク、ファール、ファール。
 勝ってるゲームの九回表でツーアウトツーストライクだから、もしかしたらあと一球で今シーズンの公式戦は、おしまい。だな。
 あ、力んだ。
 沈みすぎてワンバウンドしたボールをキャッチャーが体で受け止める。
 ボールに目を落としたキャッチャーが、ボールをユニフォームでごしごし拭って、それでも土がとれなかったのか、審判と交換する。
 犬飼には真新しいボールが放られ、その白いボールの縫い目をオレのよく知る指が探る。
 オレはなんだか淋しいと思う。
 オレが一番よく知っている犬飼は、ついた泥を拭って拭って拭って、沁み込むように煤けたボールを血の滲んだ指先で探り、きりりと歯を食い締めながら、食い付くような気迫で、

「ああ、きれいなストレートだ」

 画面には154kmと表示された。
 のびやかなストレートがまっすぐにミットに収まり、見逃し三振、ゲームセット。

 あー、勝った。

「よかったね、犬飼君」
「うん」
「プロ一年目の成績、十三勝。素晴らしいじゃないか」
「半端な数だけど大したモン、って言ってやっていッスね」
「本当に」

 ぱん、と軽くハイタッチした。
 犬飼にお疲れのタッチだ。
 今頃、子津ちゅーがいそいそとお手製の垂れ幕に「三」をアップリケし始めているだろう。
 十二支OB飲み会で嫌がらせのごとく派手に犬飼を持ち上げてやろうと計画している。

 たっつんもスバガキもキザトラ先輩も大はしゃぎで、どうやら淋しがっているのはオレだけらしいな、と思う。

 一番犬飼と一緒にいるくせして、まだオレはプロ野球をやっている犬飼に慣れない。
 それは多分、オレがプロ野球というものに慣れていないからだと思う。
 大体、本腰を入れてプロ野球を見るのは今年が初めてだった。
 去年までは自分たちのチームのことばかりで、プロ野球は人並みには見ていたようには思うが、それほど夢中ではなかった。好きなチームも特になかった。ものすごく注目しているピッチャーもいなかった。
 犬飼が、あの、プロの手できれいにきれいに整えられたマウンドに上がるようになってから、プロ野球で使われるボールはいつでも白いのだということに初めて気づいた。
 そりゃあ、高校野球だって試合で使うボールは白いのだから、毎日試合のプロ野球はボールが白くて当たり前なんだけど。
 使い込まれて煤けたボールを握る犬飼の指を思い出しては、時々、よそゆきの姿ばかり見ているような気がして淋しくなるのだ。

 犬飼のチームの監督がインタビュー受けてるのをぼーっと見上げてそんなことを考えていると、食べ散らかした(といってももちろんオレにしては上品につまませていただいた)ツマミ類を片付けながら、
「泊まっていくかい?」
 と先輩が言った。
「や、帰ります」
 答えてリモコンに手を伸ばし電源を落とす。スクリーンが静かに巻き上げられてひっこんだ。


 アパートの前まで送ってくれるというのを断り、適当なところで下ろしてもらった。
 秋の夜風は淋しいけれど心地よい。
 ボールの味を知ったのもこんなくらいの季節だった。
 その頃何を考えてたとか何が切なかったかとかは正直よく憶えていない。
 オレと犬飼は時々隠し事をするように抱き合い、オレにはまだ両手があり、ごく普通に過ごしていた。
 思い出すのもくだらないような恥ずかしいような理由で喧嘩をし、傷つけあい、傷つきあい、突き放し、逃げ、立ち竦み、勝手に追い詰められ、そういうごく普通の人間らしい子どもらしい日々だったと思う。

 あれは、野球に依存しない関係を求めたはずが、結果あいつの野球を遠ざけてしまって茫然とした、そんな感じだったろうか。
 投げ込むあいつの背中が遠く、もうオレは軽やかにサードからマウンドに駆け寄るような、そんなことはできないんじゃないだろうかと。
 何がそこまで自分を焦燥に追い立てたとか、今となってはわからないが。


 暗く、そろそろ降り出しそう、な天気だった。
 ぽつんとグラウンドに残された汚れたボールには、かすかに血の痕がついていた。
 あいつの赤、だと。
 拾い上げ、たかがボール一個に激しく嫉妬した。


 こんな ちっぽけな  くせに   たとえ いっしゅん  でも    あいつになにもかも   たくされ て


 大きくかぶりつき歯を立てた。
 舌の先と唇の内側の粘膜で一瞬感じた甘さ。
 それを追うようにして汗と土の匂いが立ち込め。
 微かな塩の奥から、滲む苦さ。

 苦い。

 苦い。


 苦い。
 苦かった。


 ああ、これが。





 そのボールをどうしたのだったかは、記憶にない。
 グラウンドから拾い上げ、その苦さに涙した瞬間を、その夏の象徴のようにオレは強く憶えている。
 泥にまみれ、血の滲んだボールと、ほのかな甘さとそれを覆い尽くす苦さと。


 十七の秋の。


 今、犬飼が投げるまっさらな白いボールに噛み付いたとしても、あんな切ない味はしないだろう。





 ―――恋の味は。










「恋の味」  2005/10/10
五感も所詮は主観に左右されるものです。(つまり空想の産物です)
考えている間はうっとりしていましたが書きながら頭が冷えそうで大変でした。どうか引かないでください。