犬飼はバカなので、猿野の進路を律儀に卒業式に知った。
 まあ、学校で会ってさえ居れば自然と耳に入ったのだろうが、冬からチームのキャンプに行きっ放しだったから仕方ない。
 本当に仕方ないか、はともかく。
 久し振りに会ったのが卒業式で、それで久し振りに話をしたのだ。


 マンガやドラマじゃいつも満開の桜は、見るつもりのあるやつが見ればつぼみは膨らんでいるけれどそんなもんで、梅はとっくに終わり、このへんには桃もない。あざやかなのは卒業生が手にしている花束と、昇降口前のプランターにもこもこ植えられている葉牡丹(犬飼はこれの正式名称は花キャベツなんだと言ってきかない)くらいだ。

 野球部の胴上げ攻撃やら(勢いあまってズボンを下ろされたのはやっぱり子津だった。辰羅川に至ってはパンツも剥がれた。もちろん猿野は自ら脱いだ)、男女問わずのボタン取り合戦に誰だか名前も知らない女子と腕組んで記念撮影、犬飼の前には気の早い連中が色紙持って長蛇の列で、ものすごい騒ぎだった。
 学校中がもみくちゃになって、渦巻いていた。
 スニーカーの靴紐まで抜き取られそうになりながら、おそらく情けない目で猿野を探すと、自分がこの世で姉の次に恐れている数人の女子どもと、にこやかに握手をしたり、アドレスを交換しあったりしていて、今はいつで、ここはどこだ、なんて思いに強くとらわれる。
 卒業というのはとんでもない特殊効果を秘めた日なんだなあなんて遠い目で思う。
 いやだって自分はともかく、猿野が女子に大人気ってありえねえだろ。

 とうとう髪の毛まで引っ張るやつが出始めて、このまま略奪されてたらハゲる、と長年の野球生活とここ三年の高校生活で鍛えたフットワークで、どうにか集団から抜け出した。
 猿野はまだ、女子と会話している。
 栗色の髪を長くしている女が、猿野の首っ玉にかじりつき彼は右手を彼女の背に回しそれに応えていた。

 ありゃ、犬飼きゅんをなんとかかんとか追っかけ隊、ってやつじゃなかったのか。
 きゅんとか寒いっつうのと自分ツッコミしつつ、嫉妬か、と自問するのはもう慣れっこで今更。
 ちなみに猿野に妬いたんじゃない、親衛隊の女子にだ。


 司書さんが居ないときはいつも施錠されている図書準備室は、意外なことに古びた紙の匂いを好む猿野がよく根城にしていた。
 ドアは施錠してあっても、ドアの上にある換気窓はいつも開きっぱなしで、長身の猿野や犬飼にとっては体が多少つっかえはするものの、乗り越えるくらい朝飯前だった。

 ここなら誰にも見つかるまいというのと、ここなら猿野が来るかもしれないという淡い期待でもって、本棚の間に長身を放り込んだ。

 そんなに待たずに猿野は来た。
 もう一年間、見慣れたものだが、片手で器用に体を支え、ひょいと狭い窓を乗り越え軽い音を立ててリノリウムの床に着地しておう、いたか、と花束を咥えて不明瞭な発音で言う。そのまますたすたと犬飼の前を通り過ぎ、資料閲覧用の小さな机に花束を無造作に置くと、狭い準備室の唯一の外に通じる窓をさっさと全開にして、もみくちゃになった髪を頬を肩を、まだ肌寒い春風に晒す。
 中身の入っていない左の袖がはたはたと風になびいた。

「第二ボタン、誰にやった?」

 ボタンも名札も襟章もない姿の犬飼をちらりと見て、笑う。猿野も同様の姿だ。
 犬飼の第二ボタンは、今、ポケットの中に入っていた。
 どういいだしたものか考えあぐねて黙っているのを黙秘ととったのか、
「じゃあ第三は?」
 本命じゃなかったら教えてもいいだろ、と猿野がまた訊いてくる。
 第三は、誰だったか、クラスの女子にとてつもない速さでかっぱらわれた。第一も第四も同じように取られて、親衛隊の子たちには誰にもゆき渡らなかった。早い段階で清熊と行き会ったので、袖のボタンを自ら千切って、まとめてやる、分けとけ、と渡してきた。こういうものに意味があるのなら、彼女たちになら持っててもらってもいい。
 襟章は、クラス担任(女)にねだられたのでセットでやった。

 報告を聞いて、ふうん、猿野はつまらなそうに呟いた。
「んじゃネームプレートは?」
「ネームプレートは辰と交換した。小学んときからずっとやってっから」
「へえーおもしれー。そっか、ダチ同士でそーゆーのもアリだよな。考えたこともなかったぜ」
 っつーか考えてみても沢松の名札なんか欲しくねーし! と一人でしきりに感心したりウケたりした後、
「で、第二は?」
 とまた訊くから、犬飼は黙ったまま、左のポケットからボタンを掴み出して目の前の男に突きつけた。
「やる」
 それだけ言って、反射的に差し出したのだろう手のひらにボタンを落とすと、左手をさっと引っ込めた。
 金のボタンを手に乗せたまま赤茶の目が伺うように見上げてくるので、
「やる。お前に」
 重ねて言うと、猿野ははじけるように笑い出した。
 笑いながら、馬鹿がいる、とボタンを握ったままの右手の人差し指で犬飼を指し、全身で馬鹿にする。
 けれども、うらはらに瞳は穏やかに潤んでさえいたので、怒りはわかなかった。

「オレさあ、第二ボタン、凪さんにあげたんだぜ」
「うん」
 それが言いたかっただけかよ、と思いつつ頷いてやる。
「もらってくれますか、って訊いたら、喜んで、名札もいただいていいですか、なんて言われちゃって」
「うん」
「あのさあ、犬飼」
「何だ」
「オレさあ、凪さんに告られたのよ」
「…………」
「すっげー嬉しかったなあ」

 ああ、そっか。と思った。
 元々猿野は鳥居凪のことが好きで、彼女も猿野を憎からず思っていたのは誰もが知っていたから、今までそういう話にならなかったのがかえって不思議だったな、なんて、自分のことを棚上げにして思う。

「……だろうな」
「オレの女神がオレに微笑んで好きだって言ってくれたんだ」
「……ああ」
「幸せ者だよな、オレはさあ」
「……ああ」

 ふにゃんとした笑みを浮かべながら、吹き込む風に体をゆらゆらさせる猿野に、よかったなと言ってさえやりたくなる。
 他のどの女でも、他のどの男でも、そんな風に猿野に近づいてこんな風に猿野を喜ばせるなら、きっとむかついて仕方ないだろうが、彼女だけは特別だ。最初から。
 だからここで猿野が何を言い出そうと構わないと思う。
 覚悟も何もいらない。

「そんでさあ、凪さんは野球の女神でもあるからさあ、」
「……?」
「凪さんが、オレを好きって言ってくれたってことはさ、オレ、ちゃんと、本当の野球ができてたんだなあ」

 お前らとさ、と猿野はふわりと犬飼の右肩に頭を寄り添わせた。背中を抱き寄せたくなって、ぐっと我慢する。
 だってまだこいつが何を言うかわからないのだから。

「なあ犬飼」
「何だ?」
「オレさ、野球できて幸せでした。あんがとよ」
「ん」

 ……ん?
 違和感を感じて、さっきは背中を抱こうとしていた手で猿野の肩を掴み顔を覗き込む。

「お前、進路どうしたんだ」

 何を今更な問いに、猿野はちょっと笑って、東京の中堅大学の名を上げた。特に何かスポーツで名が売れているとか、そういう記憶はない。野球部のうわさもない。
 つまり。

「野球、続けねえのか」
「うん」

 いっぱい悩んだんだけどよ、と失くした左腕をさする。

「オレ、こうなっても野球やってられたのは、お前とか、みんなに求められてたからなんだよな」
「十二支から離れて野球してても、思い出と野球してるようになっちまうかもしんねえ」

「そういうのはダメだろ、だから、しばらくは、野球じゃない、他の何かで、オレの居場所、また、見つけるよ」

 一言一言、区切るようにはっきりと言って、でもお前らはずっとオレの居場所だ、と小さく、聞こえないくらい小さく呟いた。
 そうか、と犬飼も呟いた。
 野球は、やめるのか。

「だから、凪さんには、きっと凪さんはまた、野球をしている誰かに恋をすると思います、って言ったんだ。野球の女神様だから」
「そしたら凪さん、男女の親友にはなれますか、って」
「親友、だってよ。最高じゃねえ?」

 幸せそうな笑顔に、胸が詰まる。
 優しい少女の隣を選ばなかった、今、自分の隣にいる男。
 それを幸福に思うよりも、切なかった。


 開け放たれた窓から、グラウンドの上を渡って風が吹き込んでくる。
 学校の匂いだ。
 土の匂いと、本の匂いと、人の匂い。

「今日こそわかれめ、ってな」猿野の声は、低く歌うように響く。「明日から、本格的に違う世界の人間だぜ、オレら」


 猿野は野球をやめ。
 犬飼は野球を職とし。


「おまえの、野球……」

 犬飼はぼそりと息をつく。おまえの野球、好きだった。
 言えば本当に猿野の野球が終わる気がして、言葉にできない。


「オレの野球、好きだったか?」
 猿野から訊かれて、犬飼は目を瞬いた。
 訊くな、お前、そんなこと、と、言いたい。
「みーんな、言ってくれたぜー。オレの野球好きだったって。お前は?」
 ぐう、と喉が鳴る。馬鹿だこいつは。ほんとに馬鹿だ。
 聞きたいなら、言ってやる。
「…………惚れてた」
 ずっとだ。ずっと。畜生。
 あの最初の雨の日からずっとだ。毎日お前の野球が欲しくて必死だったんだ。お前と野球したくてめちゃくちゃだったんだ。オレだってそうだ。誰だってそうだ。誰だってずっと、今でも、そうだ。
「……そっか」 静かに満足そうに呟いて、猿野は目を閉じる。「へっへ、みーんな、オレ様の野球に失恋だな」
「……ッ、全くだ」
 唸るように言って、今度こそ肩を抱く。
 夏からあまり動いていないせいだろう、少し痩せて柔らかくなった。

「ごめんな」
「謝んなバカ」
「うん」


 これで、終わるんだな。と、想う。

 卒業式だ。
 卒業なんだな。


 両手を回して、抱いた。
 黒い制服を着る自分も、着た猿野も、これで卒業。

「大学、家から通うのか」
「その方が楽なんだろーけど、思い切って一人暮らしだ」
「都内か」
「都内。遊びに来いよ」
「行く」
「よし」

 右手で犬飼の胸を突っぱねて、猿野は笑った。
「何淋しそうな顔してんだよ。オマエなあ、オレがオレの野球なんかやってたら、そっちにイッパイイッパイでてめーのことなんか見ねえぞ。ちっとも応援しねえぞ」
「そうなのか?」
「そうだよ。だからてめー少しは有り難がれ。猿野様がてめーの応援団に入ることをよ。バーカ」

 応援団、に呆けたような顔をする犬飼の整った鼻をねじり上げて罵り、肩を割り込ませるようにして、再び猿野は乗り出すようにして窓の外を見る。もう、辺りは赤く染まっている。
 目を眇めた。

 猿野の赤茶の髪が透けて、毛先が真っ赤に揺れている。
 身長差は頭一つ分のまま、結局開きも縮まりもしなかった。
 背中を丸めて、低い位置にある猿野の項に頭を擦り付ける。

 猿野は振り返らず、正面から吹く風に額をさらしながら、
「頑張れよな、お前」
 と呟いた。
「うん」
 囁くように応えて、日向で眠る猫のように目を閉じた。


 風はつめたく、夕日はあたたかく、猿野の背中もあたたかかった。
 外ではまだ、別れを惜しむ声が人肌の温度で響いている。










「卒業」  2005/08/10
花キャベツは、カリフラワーの別称。犬飼はアホですね。
いろいろとネタばれになってしまう話なんですが、卒業後シリーズに結構反応いただけたので、書いてみました。