「鳥居君、ちょっといいかい」

 ジャージ姿の牛尾に声をかけられて、凪は正直少しびっくりしながら振り返った。

 今日も空は秋の色をして、日差しは少し柔らかになりつつも充分すぎる熱を注いでいて、風は涼やかにグラウンドを駆け回る球児たちの機嫌をよくしていた。
 凪の愛する球児たちは基礎的な守備練習に励んでいる。
 監督はパチンコ熱に火がついてしまっているのか、今日も練習に顔を出さない。
 代わりにノックするのは部長よりも部長の仕事をこなす副部長の猪里で、内野陣には鬼としか思えないようなボールを放ちまくっていた。
 外野の守備練習の番になると、珍しく長打をかっとばす猪里が見れるので、マネージャーたちはある者は仕事をこなしつつ、仕事が特にないものは休憩をとって見学に回っていた。バントはあんなにも個性的なのに、猪里のスイングはきっちりと基本に則ってきれいだ。
 サードに並んでいる猿野が目を見張ってじっとそれを見つめている。
 他人のいいところを盗もうという貪欲な目だ。それはとてもきれいな貪欲さだ、と凪は思う。

 そんな時に、背後から牛尾の声がかかった。
「何ですか、牛尾キャプ……牛尾先輩」
 主将、と自然と出かかった言葉を慌てて言い直し、牛尾と一緒に苦笑をもらす。
 一年生も二年生も、まだ、牛尾を見ればキャプテン、と呼びかけてしまう。
 その度に、キャプテンは虎鉄君だろう、と牛尾は困ったように微笑むのだ。

 今回は凪が途中でちゃんと言い直せたので、苦笑した後、牛尾はうん、と頷いた。

「ちょっとね、話……というか、うん、話だね、がしたいんだけど」
「はい、何でしょう」

 笑顔で返すと、牛尾はちらりと空を見上げて、少し困ったように首を傾げた。
「ここじゃなくて……そうだな、部室に来てもらってもいいかい?」
「かまいません、けど……」
 何か込み入った話なのかしら、と凪も首を傾げた。

 ともかく、牛尾に促されて一緒に部室に向かう。
 それを目敏く見咎めた猿野が大声を出した。

「牛尾キャプテーン! 凪さんをどこへ連れていくつもりっすかー!?」
 その声にグラウンド中の視線が自分たちに集まるのを感じて、凪は顔を赤くした。こういうのは苦手だ。皆に見られるとか、そういうのは。
 キャプテンは俺だRo! とファーストから叫ぶ虎鉄の声を無視して、何かしたら牛尾キャプといえどもただじゃおかないッスからねー! とか猿野が叫んでいる。叫ぶばかりでなくこちらに向かってこようとする。
「猿野君、練習中っすよ!」
 すかさず子津の制止の声が響き、それにそうだそうだとあちこちから声があがる。

「そーだぞ猿野、静かにしろっての」
「集中しろテメー!」
 あれは多分片貝と長戸だ。

 それから、凪たちのところまでは聴こえてこなかったが、犬飼がマウンドから何か言ったのだろう、ムッキャアア! という猿野独特の怒声が響いて、猿野はくるりとマウンドに向き直り、憤然と何かを怒鳴り返そうとした。

 次の瞬間、バットの真芯にボールの当たる澄んだ音が二回立て続けに響いて、犬飼が腹をおさえて蹲り、猿野は額をおさえながら仰向けにばったりと倒れた。二人の足許にはボールがころん、と転がって、ホームでは猪里が黒い笑みを浮かべている。
 制裁として、猪里の絶妙なライナーが二人を襲ったようだ。
 笑いと野次と、猪里への喝采がグラウンドのそこここから飛ぶ。
 凪は思わず、猿野に怪我はないかと確認に走ろうとしたが、牛尾が穏やかに「猪里君はそんなに危険なボールを打ったりしないよ」と笑顔で言うので、あらためて牛尾について部室に向かった。



「鳥居君、最近何か無理をしていないかい」
 部室に入ってドアを閉めるなり、牛尾は言った。
 特に無理をしているつもりはないが、全くしていませんと言い切れる状況でもないので、凪が答えかねて黙っていると、牛尾はいや、すまないね、と少し困ったように笑った。
「とっくに主将でなくなったのにまだ主将みたいな気分でいるんだ。でももう、できることがお節介しかなくて」

 所在なげに首の後ろに手をやる牛尾に、思わず凪は吹き出した。
 確かにこれはお節介だ。でも牛尾の気持ちがよくわかってしまう。

 何て、優しい人なんだろう。

 思いながら、凪は頷いた。
 元より隠すつもりも曝すつもりも、どちらもなかったし、つまりはどっちでもよかったのだ。
 一応隠してはいたが、この人にはもう見えてしまっているのだろう。
 彼女が何かを隠すために気を配っているということに。

「無理は、していませんけど」

 でも、辛いことはあります。それを隠しています。
 言葉には出さずに、凪はゆっくりと上のジャージを脱いだ。
 半袖のTシャツから突き出る腕には、片方だけ赤い筋がいくつも刻まれている。

 切りっぱなしで放置している傷は、まだしっとりと血を滲ませているものから、かさぶたになってざらざらとしているものもある。昨日も、二本ほど痕をつけた。

 それを見て少し目を見張った後、牛尾は静かにロッカーから救急箱を取り出した。

「座って」
「……はい」
 一瞬断ろうかと思ったが、牛尾にできることはもうお節介しかないというのだから、そのお節介をさせてあげようと考え直す。ベンチの牛尾が示したあたりに腰かけると、救急箱を抱えた牛尾がすぐその隣に座った。
 牛尾は黙ってひとつひとつ傷を消毒して、傷が広がる上腕にガーゼをやさしくあて、包帯を巻いた。
 その間彼から発せられる空気には、悲しみも咎めるものもなくて、ただ穏やかで優しいものしかなかった。

 だから、凪もされるがままに、清潔な白に隠されていく傷をじっと見ていた。

「大丈夫」
 ふいに牛尾が言った。
 え、と思わず声を漏らすと、牛尾は包帯にハサミを入れ、テープで止めながら再び大丈夫、と繰り返した。

「傷口はきれいだし、まだ若いからそのうちにすっかり消えるよ。残らないから、大丈夫」
「………………はい」
 ありがとうございます、とぺこりと頭を下げ、凪はまたジャージを着た。巻いてもらった包帯がずれないように、そっと。

 窓を開け放した部室には涼やかな風が吹き込んで、凪の黒髪と牛尾の金髪を同時に揺らした。

「……お節介しかできないから、どうして、とか、何か僕にできることは、とか、訊きたいとは思うんだけど」
 いつも明朗に話す牛尾が、ぼそぼそと喋りだす。
 それも牛尾の優しさがもたらすものだと、凪にはわかっていた。
「無理は、していないんだね?」

 そこまでしか踏み込まないから、安心して、と言われたような気がした。

「はい」
「その、今の状態が、鳥居君には一番自然なんだね?」

「……そう、ですね、よくないとは、わかってるんですけど」
 至極真面目に、牛尾の目を見て答えた。
 牛尾はそれに頷いて、救急箱の箱を閉じた。

「本当は、それなりの……クリニックとか、カウンセリングとか、紹介したいんだけど、まだ時期じゃないみたいだね」
「ええ……本当は、すぐにでも行かなきゃいけないとはわかってるんですけど」
「うん。いいか悪いかはわからないけど、僕は鳥居君を支持……いや、今の状況を支持はできないけど、でも、肯定はするよ」

 救急箱を脇に置いて、牛尾はいつものように指を組み、背中を屈めて、綺麗に微笑みながら凪の顔を覗き込んだ。
 牛尾に下から見上げられるのが初めての凪は、少し居心地悪そうに肩をすくめたが、きちんと、その微笑みに微笑みを返す。自然な、いつもの彼女の笑顔を。
「ありがとう、ございます」

「うん」
 牛尾は頷いて、軽く凪の背中を叩いた。
「その気になったら、いつでも言って。きちんとしたところを紹介するし、いや自分で探してもいいけれど、部活を休むことになったら君に煩わしくならないように僕から虎鉄君あたりに言い訳もしておくし、何でもできることはするよ」
「はい」
「そこまでしなくても、自然と癒えたらいいけれどね」
「はい」

 いつも昼間はつめたい、傷だらけの左腕を暖かく感じた。
 傷と、心とが、一緒にじいん、と痺れた。

「大丈夫です。私、頑張ります」
 それは自然と零れた言葉だったのだが、牛尾は困ったようにうーん、と言った。
「ん……頑張っても……いいけど、今以上には、頑張らなくていいからね」
「? どうしてですか?」
 首を傾げると、困った子だなあ、と言いた気に先割れの眉が下がる。

「だって……君には、君も、他の子たちもだけど、もっと、はないじゃないか。いつだって全力で頑張っているだろう」
「そう……でしょうか」
 自分自身がそんなことを言われたのは初めてで、凪は目を丸くする。
「そうだよ。いつでも全開だよ君たちは。そこにもっと、なんて頑張ったりしたら壊れちゃうよ」
 ふー、と深く溜息をついて、牛尾は組んだ両手にこつんこつんと自分の額をぶつけた。
「君とか……犬飼君とか……特に心配」
「え。……私と犬飼さんですか!?」

 頑張って壊れそうといえば、猿野とか子津とかが真っ先に浮かぶのだが。
 牛尾はうん、と頷いて、またぼそぼそと喋り始めた。

「うん。猿野君は何だか何やっても平気な……気が、する。いや彼も人間だからそんなことはないってわかってるんだけど、彼の場合、僕たちみたいなただの野球バカじゃなくていろいろな経験があるから……沢松君もついているしね。子津くんはもっともっと、なんて言いながら、既に物理的に上限だからどう捻ったって今以上頑張りようがないんだよ。虎鉄君や猪里君はよほどのことがない限りは自分をコントロールできるタイプだし……兎丸君や司馬君もね。
 でも、君や犬飼君は、もっと頑張るって思いつめたら、本当に自分の限界を越えてもそれに気づかないで一途にやりすぎてしまう気がするよ。犬飼君のことは辰羅川君が止めてくれたらいいんだけど、犬飼君は時々辰羅川君の言うことも聞かなくなるときがあるし……君の場合は、猿野君が気づいてくれるかどうか……」

「え、あの、先ぱ……」
「ッ凪さあぁぁぁぁん!!」

 言いかけたところで、バタン、とドアが開いて、猿野が飛び込んできた。
 弾かれたように、凪は振り返る。
「猿野さん!?」
「ああ凪さん! キャプテン! 何なんですか密室に二人で密談なんて! 凪さん牛尾キャプといえども男ですよ男は狼ですよ何もされませんでしたか大丈夫ですか無事でしたかッ!?」

「……それは随分な言い様じゃないかい、猿野君」
 にっこり微笑んだ牛尾の顔には『後でケツトンボ八兆回だねv』と書いてある。
 それに思わず猿野は後ずさり、凪もベンチの上で思わず三十センチほど距離をとった。 
「うっ……スンマセン……でも、あの、オレ……」
「うんうん、君が鳥居君にLOVEすぎてそんな失言に至ったことはよくわかっているよ。練習終了後のボール磨きで手を打ってあげよう」

 いつもはキャプテンは虎鉄君だろう、と言う口でしゃあしゃあと牛尾は言ってのけた。
 ははーっと平伏する猿野に、凪は小さく笑いをもらし、牛尾はあはは、と明るく笑った。

「猿。邪魔だ」
 部室の入り口で土下座している猿野の尻を外から蹴り上げながら、犬飼が部室に入ってきた。
 その後ろから猿野君、キャプテンに何か無礼を働いたのですか、などと言いながら辰羅川が、兄ちゃん引き上げるの早すぎ! ときゃんきゃん言いながら兎丸が入ってきた。その後ろから、司馬や、虎鉄や猪里も入ってくる。それに二年の藤崎、新里。各ポジションの現ナンバー1だ。

「守備練習は終わったのかい」
「はい。今日この後はポジションごとの反省会になりますので……」
 辰羅川が答えて、部全体の共用ロッカーから何冊かのノートとペンケースを引っ張り出した。
 守備練習後は、各ポジションでもちろん反省を述べ合うようにしているのだが、定期的にこうしてきちんとノートに反省点・問題点・目標など書き込むようにしてより確実に反省が活かされるようにしていこうと辰羅川が提案し、今実験的にそれを試しているところだ。
 ノートの閲覧と書き込みはいつでも、他のポジションの部員やマネージャーでもできるようになっていて、部員のコミュニケーションを円滑にする役割も果たしている。いつも何を考えているかわからず、反射神経で守備をやっているものと思われていた司馬が、実は辰羅川に負けず劣らずの理論家で、いつでも最新の守備理論をネットでチェックしてきては各ノートにちまちまと書き込んでいたりとか、部員の意外な側面が見えてきたりするのだ。
 それにこれが結構面白い。
 ノートでまで薀蓄説教たれている辰羅川にある日いきなり鹿目から突っ込みが入っていたりとか。その横に三象の解読不能の書き込みがあったりとか。
 誰かの守備に『腰がひけている』なんて書かれていると、その脇に清熊の字で『漢じゃねえな!』とあったりとか。
 サードのノートなんかはめちゃくちゃだ。仕切るべき猿野がまず『オレ様は完ぺきだ』とか書き込んだ後に、非難轟々、他のサード部員や時には獅子川や牛尾から矢印つきでツッコまれて(『←猿野君、漢字はきちんと書こうね、完璧、だよ。後で十回練習しておくように』)、それを全部カッコでくくって『おーしわかった全部なおしてやんぜ!』なんてまた猿野が書き込む。
 それを見てサードの連中も、他の部員たちも、笑いながら気合が入っていくようだ。

 そのノートと、ペンケースとをてきぱきと配り、牛尾に向かって辰羅川が言う。
「牛尾先輩、もしお暇がおありでしたらサードやライトの反省会に助言を頂きたいのですが……」
「もちろんいいよ、それじゃあライトから参加させてもらおうかな。よろしく新里君」
「は、はい、よろしくお願いしまッス!」
 ビシリと背筋を正した新里にくすりと笑って、それじゃあね、鳥居君、と牛尾は部室を出て行ってしまった。
 その後について、ノートとペンケースを手にぞろぞろと彼らは出て行く。

 ほら〜行くよ兄ちゃん! と兎丸に手を引っ張られながら不承そうに部室を出ようとする猿野に、凪は声をかけた。

「猿野さん」
「ッはい何すか凪さん!」
 兎丸の手を思いっきり振り払って猿野が笑顔で振り返る。
 猿野の馬鹿力にふっとばされた兎丸は、立ち上がってユニフォームについた砂をはらいながら、ひきつった笑いを浮かべている。報復の方法を考えているらしい。

「あの……練習後のボール磨き、お手伝いさせていただいてもよろしいですか?」
「な……凪さんッ……!」
 感極まったように猿野はよろめき、よろめきながら凪の左手を両手でうやうやしく握り締めた。

「あああああありがたいですありがとうございますうれしいですでもそんな瑣末事に凪さんのこの美しいお手を煩わすわけにはこの猿野天国男としてそれは」
「猿野さん」
 苦笑して遮って、左手を握っている猿野の手に右手を添える。

 左腕の傷が、じんじんと疼いていた。普段なら、あまり何も感じないのに。

「私、ボール磨き好きなんです。させていただけませんか?」
「そそそそそこまで仰るなら大歓迎大感激不肖猿野お供させていただきます!」
「いえ、主役は猿野さんですけど……」

 もうこらえきれなくて、微笑ではなく笑いが出た。可笑しい。楽しい。……愛しい。

「ハイハイハイハイもういいでしょ兄ちゃん! 凪ちゃんとは練習終わってからごゆっくり! ちなみにぼくも参加させてもらうからね!」
「はあぁ!? 何だとコラ! スバガキてめえオレ様と凪さんの……」
「もういーから! サードのみんな待ってるよ! ぼくだってセンターのみんな待たせてるんだから! 行くよ!」

 なぎさ〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん、とフェードアウトしながら、猿野はキレ気味の兎丸に再び引きずられて行った。

 凪は一人部室に残されて、しばらくクスクス笑っていた。
 牛尾に、どうして私には猿野さんなんですか、と聞きそびれたが、なんだかわかるような、はっきりわからなくてもそれでいいような、そんな気が今はした。

 左腕はまだ疼きながら、傷を負う自分を責めていたけれど、そんな自分を嫌だと思っているけれど、こんな風に野球部にいて、もまれて、愛されて、笑っている自分、笑えている自分を、愛しいと思った。


 こんな風になってから初めて、自分を愛しいと思った。










「愛する人に愛されて.2」  2004/10/21
予想外に前作が好評だったのと、何故か自分の中で牛凪が盛り上がっていたので書いてみたんですが、結局猿凪に収まるんですね……。ああチクショウかわいいよ猿凪。ていうか凪ちゃん。
今まで書いた話の中で最長です。6600字くらい。でも一日で書きあがった。何か有るのか闇凪には。
前作よりはタメになる話になったかと思いま…す(自信薄)。自分を愛しく思うこと。思ってもらうこと。大事。
あ、ちなみに各ポジのノートは投手捕手は合同です。犬はただモミについて来ただけ(犬だけに)。