長袖のに季節になって、腕の傷は増えた。
平静を振る舞うつもりもなく弱った己を晒すつもりもなく、ただ周りの人々を愛するが故に、それが見えないように心を配った。愛されているから、心配をかけないように。 十月も半ばになると風が体温を奪うように吹くようになってくる。 今年の夏は暑かった。そして長かった。 いつ春から夏になったのか思い出せないくらい長かった。その間に起こったことのひとつひとつで憶えていないことなんてないのに。 十二支野球部の「夏が終わった」瞬間から「秋」は始まっていたけれど、それはまだ八月のことで、まだまだ暑く、それは夏のようだった。凪にとってはまだ夏が終わったようには思えていなかった。 夏が終わった瞬間に十二支の男たちは男泣きに泣いたが、ほんの三日間の休みを挟んで部活がはじまった頃にはケロリと「秋」の顔をしてまたグラウンドにやって来た。 部室のロッカーからは選手たちが休んでいた三日の間に三年生の名札が剥がされ(泣きながら剥がしたのは自分たちマネージャーだった)、牛尾のロッカーだけが名札なしで「先輩用」として使われることになった。 虎鉄と猪里を中心に新しいチームが組まれ、まだ季節は夏と主張する暑い空の下、息をつく間もなく秋大会が始まり、埼玉大会の代表二校に華武と共に残りはしたものの、関東大会の初戦で新十二支は敗れた。 そこで十二支野球部の「秋」は終わって、今は冬の前の静かな季節だ。 秋の高さを完全に見せるようになった空と、肌に冷たくなった風と、まだ夏の匂いを忘れさせない太陽と。 部室外のベンチに座って空を見上げ、ジャージの上着の上から左腕を少しだけおさえるように握った。 剥き出しのままの傷にジャージの粗い布地が引っ掛かって、かさぶたを揺さぶる。 遠くから、二人分の騒ぐ声が近づいてくる。 我に返り、またですか、と微笑んで凪はベンチの下からマネージャーアイテムを収納してある箱を引っ張り出した。 「凪すゎ〜ん! ヒゲに大怪我を負わされました! 手当てお願いします〜!」 「凪ーオレの方が重症だZe!」 ごろごろと寄ってきた猿野と虎鉄に優しくタオルを差し出し、凪は救急箱を開けた。 せいぜい軽く投げ技でもくらった程度なのだろう、大した怪我はもちろん二人ともなく、擦り傷程度で、普段の部活中ならもっと大変な怪我を平気で負っている。 けれども凪は手当てするなら些細な傷の方が良かったし、傷の手当てをしながらの部員とのコミュニケーションは好きだった。 「また抗議に行ってらしたんですか」 「N〜、カントクの言うことも判るんだけどYo、やっぱ試合すんのは楽しいからNa」 口を尖らせながら虎鉄は言って、消毒が沁みたのにイチチ、と肩をすくめた。 「悪あがきッスけどね、もう」 猿野もぶちぶち言いながらベンチをギコギコと揺らした。 秋大会が終わって、剣菱たちが引退したセブンブリッジに代わって華武と共に埼玉の二強に数えられるようになった十二支には、あちこちの高校の野球部から練習試合の申し込みが来るようになった。 新主将の虎鉄は大喜びで片っ端から受けようとしたのだが、それを監督の羊谷はおさえ、年内は対外試合は一切行わない、という方針を突きつけた。下手すれば春から秋まで公式試合づくめの野球部は、今が基礎を固める時期だということで。 それに納得のいかない(というか試合がしたくてたまらない)虎鉄は、同じように試合がしたいと主張する猿野を伴って毎日のように監督に直談判に出かけてはこうして敗北して帰ってくるのだ。 「……と、はい、おしまいです」 猿野のおでこに絆創膏をぺたりと貼って、凪はベンチに座りなおしてゴミをまとめ、用具を仕舞っていく。 虎鉄はその隣に悠々と陣取り、猿野はその虎鉄にキーキーと突っかかっていたが、子津に呼ばれてぶつくさ言いながらグラウンドに走っていった。 『猿野君、監督に抗議はいいッスけど帰ってきたならさっさとトンボかけてくださいよ』 『ケチケチ言うなよ子津っちゅー、オレの代わりに牛尾キャプがトンボかけてくださってるじゃねーか』 『だからなおさらっすよ!』 いつもと変わらない掛け合いをやっている二人の背中は、とっくに冬の背中だった。 照らす太陽はこんなに暑苦しいというのに。 それを微笑みつつ苦笑しつつ見ている牛尾は、野球部のユニフォームではなく、学校指定のジャージを着てトンボをかけていた。 季節はとうに変わっているというのに、自分はまだ夏が終わった、そのすぐ後の時間でくすぶっているような気がする。 十二支に入って兄と実質的に敵対することで切り捨てた、自分の夏の半分が終わった。 兄の高校球児としての夏が終わると同時に。 剣菱は最後の試合に負けた直後、崩れるように体の限界を認めて一ヶ月ほど入院した。 今は通院しながら進学に向けて予備校の論文講座などにのんびりと通っている。 彼は穏やかに夏の次の季節を迎えて、またその次の季節に向かって歩いている。 「男の人の季節って、なんだか止まることなんか知らないみたいですね」 猿野と子津の掛け合い漫才にちゃっかりと混ざる犬飼や辰羅川の背中も、冬の背中になっている。 彼らの背中は、穏やかで強くて、そして眩しい。 光の強い季節を乗り越えて、冷たい空気の中でも熱を発して隠そうともしない。 そんな背中の傍らに寄り添いながらも、置いていかれたような気分になる。 「少し、羨ましいです」 小さく呟いた凪の顔を、虎鉄が覗き込んだ。 「何Da、凪、悩みでもあんのKa?」 「……あ、いえ、そんなことはないんですけど」 「そうKa……でも最近元気ないように見えるZe? あんまり無理SuんなYo?」 気遣う声は、いつものナンパ男のではなくて、先輩のそれだった。 「大丈夫、です。ありがとうございます」 ふわりと笑顔を見せた。心配をかけないように。 「ん、それならいいけDo……何かあったらいつでも言えYo?」 トンボかけ終わりましたーと一年生が呼ぶのに片手を上げて答え、虎鉄は立ち上がる。 まだ心配がとれないような、凪の隣を離れるのを惜しむような、半々の表情でちらりと振り返ってから、じゃあNa、と走っていく。その背中も、他の部員と同じに眩しい。 長袖の下に隠した傷の存在を知ったら、あの人はどんな顔をするだろうか、と考える。 きっと怒りながら悲しんで、痛いくらい心配してくれるのだろう。そして、自分がこんなことをしなくて済むように、優しく話を訊き出して、力を貸してくれるのだろう。力を尽くしてくれるのだろう。 こんな自分のために。 そんなことは、してもらいたくなかった。 止めろと言われて止められることでもなくて、撫でてもらって癒えるようなものでもない。 自分の季節は半分が終わってしまった。兄は次の季節を緩やかに迎え入れて前に進んでいるというのに、自分の季節は終わった状態のままだ。つまり、死んでしまっている。 生き残ったもう半分の季節、本当の自分自身の季節は、まだ夏の終わりから抜け出せずに足踏みをしている。 どうしてこんな風に季節に付いていくことすらできないのか、と凪は高く遠くなった空を見上げる。 凪さん。凪。ハニィ。鳥居。鳥居さん。鳥居マネ。凪ちゃん。 名前を呼んでくれる人はたくさんいる。 それなのに、この孤独感はどこから来るのだろう。 わけがわからず、ただ狂いそうな感情をなだめるために腕を切った。真夜中、真っ暗な自分の部屋で静かにカッターを腕に当てて。 このままでいいと思ったことなんてない。 こんな自分から抜け出したいと願っていた。でもどうすればいいのかわからない。 誰でもいい、誰か、踏み込んで、引っ掻いて、振り回して欲しかった。 抱いて欲しかった。いや、抱くなんて優しいものじゃなくていい、犯して欲しかった。 何でもよかった。わけがわからなかった。 そんなこと、誰にも望めない。 本当に、わけがわからないのだ。 疼く精神を無視するかのように体はてきぱきと働いて、マネージャー仲間と笑顔を交わし、選手たちと笑顔を交わす。 気づけば一日は終わっていて、後片付けをする自分をいつものように猿野が手伝ってくれていた。 猿野の背中は、多分一番眩しい。季節と共に生きるどころか、季節を追い抜くほどの勢いで生きているからだろう。 そういえば、猿野さんは、お兄ちゃんのこと、ライバルだって、前に言ってたっけ。 他愛もないことを思い出して、ふと気持ちが和らぐ。そして次の瞬間、ずんと重くなる。 これからあと二年、自分はこの眩しい背中の傍らで夢を見てもいいのだということに気づいて。 その喜びの大きさと、今の半端なままの自分が感じていくだろう苦しみを思って。 「猿野さん」 思わず呼んだ。 振り返る猿野は、凪に呼んでもらったというだけで、本当に幸せそうだ。 純粋で混じりけのない幸福をその笑顔に掲げている、と凪は思う。 そんな猿野が、凪は大好きだ。 「何すか」 猿野の声が優しい。それに泣きそうになる自分を、必死で閉じ込める。 「猿野、さん」 わたしのことが、すきですか。 「はい、凪さん」 わたしのことが、すきですか。 わたしが壊れていても、あなたはわたしのこえにふりかえってくれますか。 そんなことは、訊けなかった。 だから、かわりに訊いた。 「野球、好きですか?」 「大好きっすよ!」 即答して、へへへ、と猿野は笑って頭をかいた。 「凪さんが野球のこと好きなくらい、きっと好きですよ」 どんくらい凪さんが野球大好きかちゃーんと知ってますけどきっと負けませんよ〜! と、猿野ははしゃいで洗濯物を振り回した。 好きなものを好き、と言葉にするだけで、この人は本当に嬉しそうにする。 「……な、凪さんのことはもっと好きですけどね!」 どさくさに紛れてさらりと言うつもりだったのだろうが、噛んだ。 そんな猿野を、凪は本当に愛しいと思う。 「私は、ね、猿野さん、野球、大好き、です。猿野さんも、大好きです」 猿野さんも大好きです、に過剰に反応した猿野が照れ隠しか、じたばたと大道芸を始めた。 耳まで真っ赤にして、まるで猿回しだ、と犬飼がいたら揶揄したに違いない。 愛する人に、愛されて、愛する人と、同じものを愛して。 「ふふふ」 凪は笑った。いつものように、穏やかに、優しく。 猿野が強く強く慕ってくれる、いつもの顔で。 癒えない傷を抱えているのだとしても、自分は幸せだ、と、凪は思った。 |
「愛する人に愛されて」 2004/10/11 自分の苦しいところを凪ちゃんに代弁してもらいました。ごめんなさいこんなネタで。 でも真剣に書いたつもりです。安易な闇キャラ・リスカネタにアンチの気持ちを込めつつ。 ……今まで書いた中で一番反応の怖い話ですが(苦笑)。 |