「甲子園行ったらさ」
 トンボかけに疲れたのか、するすると後ずさりながらトンボの柄をゆっくりと地面に置き、兎丸が言い出した。
「絶対最後まで負けたくないと思うよ」
「……負けたくないと思うのは当然だと思いますけれど」
 突然どうしたのだ、と言いた気に辰羅川がトンボかけの手を止めて、しゃがみ込んだ兎丸を見下ろした。
 辰羅川の隣にいた犬飼もそれにつられて動きを止め、兎丸の向こう隣に居た司馬はトンボを手放して膝をつき兎丸の横顔を覗き込む。
 それに気づいた猿野がどうしたどうしたとトンボを引きずりながらやってきて、その後ろからきちんとトンボの先を浮かせながら、猿野君トンボひきずらないで下さいっす、と言いながら子津もやってきた。
 来んなバカ猿、うざい、うるせえ暑苦しいんだよコゲ犬、と軽くやりあってから、
「どしたんだ、スバガキ」
 と猿野がたずねた。

 兎丸は自分のトンボの先をじっと見つめながらうんとね、と首を傾げる。
「甲子園行って、負けたチームはみんなで甲子園の砂持って帰るじゃない」
「そうっすね、決まりみたいなもんすよね」
 子津が相槌を打って、それにうん、と兎丸は頷く。そこに猿野が口を挟んだ。
「でもさあ、甲子園の砂ってもそもそもどっか他所からから持ってきただけの」
「猿野君、そういう問題じゃないんすよ!」
 咎めるように子津が声を上げ、それに頷いて犬飼が低い声できっぱりと言う。
「出所がどこだろうが甲子園の砂は甲子園の砂だ」
「うーん……」

 そもそも野球に縁も興味もなかった猿野には、まだ甲子園の砂を持ち帰る、という球児の心はわからない。
 まだしょうがないっすね、と呟いて子津は猿野に詰め寄ろうとする犬飼の背中をぽんぽんと叩いた。わからないものは仕方ないし、きっとそのうち猿野にもわかるようになる。

「ちなみに甲子園の土は国内の黒土と中国福建省の白砂を専門家がブレンドして選手が良いプレイをできるように仕上げられた最高の土なのです。ただの土ではありませんよ猿野くん」
 辰羅川が眼鏡を上げ下げさせながら薀蓄をたれる。

「そこまでは知らなかったっす……それはさておき、それで、兎丸君」
 子津が先を促すと、兎丸はうん、と頷いて上から自分を覗き込む四つの顔を見上げた。犬飼の顔のすぐ後ろに夏の太陽が高く上がっていて、眩しい。兎丸は目を眇めて、また視線をトンボの先に戻した。
「甲子園の砂、みんなでかき集めて、袋に入れるでしょ、それ何度も何度も、ぼく、テレビで見てさ、泣いてる人とか、悔しそうな人とか、もう放心しちゃってる人とか、いろんな顔がアップで映されて、テレビのこっち側で僕も一緒に悲しくなったりするんだよね」
「そうっすね、僕もそうなるっす。一緒に泣いちゃったりとか、よく頑張ったなあ、って感動したりとか」
 うんうん、と司馬が大きく頷いて、犬飼もこっくりと首を折る。
「でもさあ、負けた選手の顔じゃなくって、背中を写してるカメラから見るとさあ」

 少しだけ、兎丸の顔がくしゃ、と歪んだ。

「砂かき集めてる選手の目の前に、カメラマンが大勢ではいつくばって、泣いてる顔とか、悔しそうな顔とか、放心しちゃってる顔とか、シャッターチャンス! とばかりにフラッシュたいてたりとか、するんだよね」
「ああ……」
「そうですね……」
 子津と辰羅川が一緒に頷いて、彼らはそれで兎丸の言いたいことを大体理解する。膝の上に置いていた拳にぎゅ、と力を入れた司馬も同じように理解したのだろう。

「嫌だよね、テレビの前で、応援してくれた人は一緒に悲しい思いしてくれたり、悔しい思いしてくれたり、よくやったよ、って思ってくれたりするかもしれないけど、それを写してる人たちは、好奇心とか、商売のためとか、きっとそういうので平気でずかずかぼくたちの前に近づいて来るんだもん。しかもあんな至近距離」
 だから最後まで負けたくないな、と言って、兎丸はしゃがみ込んでいた体勢から両足を投げ出して、土の上にぺたんと座った。

「そうっすよね……負けて、悔しくて、しょうがないときに、赤の他人に至近距離で顔見られたりしたくないっすよね」
「それは言えるな。つーかチームメイトにだってあんま見られたくねー」
 子津の言葉に犬飼も頷いた。

「最後まで勝ちゃいいんだろー? そしたら満面の笑顔とりまくりやがれとばかりに砂拾えるぜ」
 どこかしんみりとしてきた雰囲気を振り払おうとでも思ったのか、両足を踏ん張って、気合の入った声で猿野が言う。

「できたらそうしたいっすよ。でも、僕たちの目標はまだ、埼玉から外へ出ること、なんすよ」
「全国優勝なんて、望めるようなチームでは、はっきり言ってありませんから」
 きっぱりと辰羅川が言って、猿野はそれに不満そうな顔をした。
「お前ら、そんなつもりで野球やってんのかよー」
「……そんなつもりとはどういうことだ」
 明らかに殺気を込める犬飼をさり気なく辰羅川と子津が遮りながら、彼らも猿野に問い掛ける視線を送った。
「なんつーか、負けたときのことなんか考えてやってんのかよ、って」

 猿野の言葉に、一瞬、誰もが詰まった。

「……考えざるを、得ないでしょう」
 ようやく、辰羅川がぽつりと呟く。
「私だって、夢に見ますよ。華武を破って、甲子園に出場して、全国の強豪と競り合って、勝ち上がって、十二支が優勝旗を手にすることができたらどんなに、どんなにいいかって。でも、今の状況を見ればその可能性は限りなく低いと判断せざるを得ないんですよ。そもそも甲子園に出れるのかどうかも五分五分、いえ、確立としてはもっと低いでしょう。なんとかして華武を倒したとしても、全国区には華武より強いチームがいくらでもいるんですよ」
 いつもの説教と比べると幾分力ない声で、辰羅川は早口に言った。
 後をついで、子津が口を開く。
「絶対負けたくないって思ってるのは、どのチームでもそうっす。だけど、勝つチームがいれば負けるチームがいて、それが十二支であることだってあるんすよ」
「そりゃ、そんくらいはわかってるけどよ」
 口を尖らせて、でもそーゆーんじゃねくてよとごねる猿野の肩を、子津はぎゅ、と掴んだ。
「もしも負けたときには、負けたということを受け入れる心の強さが必要なんす。だから、負けたときのことだって、考えるんすよ」

 子津の真摯な声と目に、猿野はじっと考えてみる。難しかった。
 そして、負けたときのことなんて考えたくない、と思った。
 負けたときのこと、全く考えないってのは、逃げなのだろうか。

「でも、勝つって信じるの、大事じゃん」
 尚も言ってみると、他の五人の首が赤ベこの首のように上下に揺れた。いつもはとりあえず猿野に反発する犬飼の首まで。
「大事っすよ、それは」

 大事だけれども。そこで六人は黙り込んでしまった。

 勝てると信じること。勝ちたいと願うこと。負けたくないと思うこと。
 でも、負けたときにはそれを受け入れるということ。

「あー! 何か難しい話になっちゃったよう!」
 沈黙に耐えられなくなったのか、兎丸が足をばたつかせながら叫んだ。
 うんうんとそれに頷いているのは犬飼で、子津はこっそりと犬飼君ってやっぱり考え事は苦手なんすね、と心のうちに呟いた。

「……最初のお話は何でしたっけ」
「うんと、まとめて言うと甲子園で負けたら負けたときの顔カメラに写されたくないって話」
「そんでできれば味方にも見られたくねー」

 辰羅川が話題の軌道修正をしようと問うて、兎丸が答え、それに犬飼が一言口を挟む。
 うーん、と腕を組みながら上半身をぐるり、と一回転させてから、じゃあよ、と猿野が手を叩いた。

「そんじゃあさ、オレたちん間では約束しようぜ。甲子園行って、そこで負けて土持ってく時は、みっしり円になって報道陣には尻しか見せないようにしよう。んでお互いなるべく顔は見ない」

「いいっすね、それ」
 子津が両手を握って体ごと大きく頷き、
「兄ちゃんのお尻でぼくの泣き顔を守ってくれるのか〜。いいけど何か微妙だね〜」

 兎丸がやっといつもの笑顔で顔を上げて、他の一年生はいっせいに笑い声を上げた。




「おや? なんだか賑やかだね」
 部室で雑務をこなしていた牛尾が扉を開き、部室の外でバットの手入れをしていた蛇神に声をかけた。
「甲子園に行った時の話を一年生でしていたよう也」
「もう甲子園? 一年生は気が早いね」
「確かに」

 蛇神は笑って、けれどもふと薄く目を開いてトンボかけに戻り始めた一年生を見遣った。
「しかし、いい話をしていた。我もそうしたいと思った也」
「……? どんな話をしていたんだい?」


 実は恐ろしく地獄耳な蛇神から一年生の会話の一部始終を聞いて、牛尾は優しい笑みを浮かべた。

「僕たちも是非まぜて欲しいね」
「うむ。我もそう思う也」

 負けたときにも、円陣を組もう。
 三年生の言葉に言い換えれば、先ほどの一年生の言葉はこうなる。

「ねえ、僕が砂を集めるとき、君は僕の隣で集めてくれる?」
「お主が望むならそうする也。しかし何故?」
「僕も、甲子園で負けた後の記憶がカメラのフラッシュじゃ嫌だもの。いつも支えあっていた君がその時も隣にいた、その感覚と、周りにずっと一緒に頑張ってきたチームメイトの存在と、砂の感触を後から思い出せればそれが一番いいよ」

 牛尾のやわらかな笑みに蛇神も笑って答えた。


「我等の間での、約束也」










「負けた日の話」  2004/08/13
パソコンを膝元に置きながら甲子園を見てて、負けチームが砂を持ち帰るところにわらわら群がる報道陣に不快感を覚えて、気づいたら書き始めていました。いや報道陣も梅さんみたいに愛を込めて撮ってるんかもしれませんけど。(笑)
しかし、司馬って難しい……しゃべらないから……ほんと……マンガだったらまだ出番あげられるのに。