「うあああああ! しまった!」

 突然猿野が叫んだ。
 午後の部活が終わって、上級生の荷物が片付くのを待って一年生が着替え始めたときのことだ。
「ど、どうしたっすか猿野くん」
 隣にいた子津が思わず耳を押さえながら問う。
 猿野はあ、とかう、とかしばらく唸ったあと、少し離れたところで着替えていた犬飼に突進した。

「犬飼! 頼む! 金貸してくれ!」
「……は?」

 一瞬何を言われたのか、犬飼は理解できなかった。
 いや、その場に居た全員が理解できなかった。

「アンビリーバボー…」
 数秒の沈黙の後、辰羅川がうめくように言った。
「そ、そうっすね……アンビリーバブルっすね……」
 子津も驚愕の色を隠さずに呟く。

 恐らく一番驚いていただろう犬飼が、二人の呟きに我に返る。
 がっしと自分の腕を掴んでいる猿野の手を、動揺のあまり、振り払うではなく優しくやんわり外しているあたりがいかに物凄いショックだったかが伺えた。
「……と、とりあえず、何でオレなんだ」
「お前ならきっと解ってくれると見込んでのことだ!」

 痛々しい沈黙が野球部部室を包む。

(何か悪いものでも拾って食べたん(で)すか猿野くん!)

 と、辰羅川と子津は心に叫んだらしい。
 他の部員も同じような感想を抱いていただろう。

「よ、よくわからねえんだけど、ど、と、とりあえず何でだ」
 犬飼のどもりがいつにも増して酷いのには突っ込むまい。
「こちかめの最新刊発売日なんだよ今日! なのに財布忘れた!」
「……明日買えばいいだろうが」
「熱狂的ファンたるのも発売日に買わずしてどうする!!」
「……………………」
「ちくしょうわかるかこのオレ様の気持ちが!」

 一度は犬飼に外された手で今度は胸倉を引っ掴んで猿野は怒鳴る。
 そこまで必死になることかと思うが、なんとも無念そうな、怒っているような、恥ずかしがっているような、開き直っているような、ごちゃごちゃした表情が少しかわいいと、犬飼は思った。
 犬飼の表情筋はそうそう容易く笑うようにはできていないので笑顔にはならないが、傍から見てわかる程度には表情がやわらかになる。

「とりあえず、オレはそこまでは拘らねーけど、わからんでもない」
「うおわあ流石お犬様! 心の友!」

 とたんに間抜けなほどに明るい笑顔を撒き散らして猿野ははしゃぎだす。胸倉を掴まれたままの犬飼はこいつ天然だろうな、と思いながら今度はその手を丁寧に厳しく叩き落とした。

「金貸すとはまだ言ってねー」
「んなっ」

 大仰に猿野はよろめき、期待さすんじゃねえコゲ犬が長編マニア同士分かり合えると思ったオレが馬鹿だったぜ畜生ケチ犬アホ犬たらし犬、と喚きだした。
 ほっといてもいいのだが、いい加減音量がでかすぎるので一発べしりとやって黙らせる。
「黙れ騒音公害。さっさと着替えろ」
「うーこんちきしょう犬め……お前の指図になんか誰が乗るか」
「さっさとしねえと置いていくっつってんだ」
「は?」
 わけわからん、と言いたげに猿野が顔を顰める。
 我ながら脈絡ねえなと思いつつ犬飼はロッカーから鞄を引きずり出した。
「本屋。行かねえのか」
「え、あ、ああ?」
 今度は猿野が混乱する番で、早くしろ、と急かす犬飼にどう切り返せばいいのか思いつかず、頭上にクエスチョンマークを回転させながら自分のロッカーに戻っていく。
「……犬飼君」
「何だ」
 振り返ると、辰羅川が忙しく眼鏡を押し上げながら立っていた。
「その、猿野君と本屋さんに行かれるのですか」
「とりあえず、そのつもりだ」
「そうですか」
 眼鏡に添えた手がふるふると震えていたが、知らない振りをした方が面倒でないと判断する。
「辰は、どうする?」
「今月は私の欲しい本は出ていませんから、先に帰ります」
「そうか」
 それでは、と出口に向かう辰羅川の背中を見送って、犬飼は念のため財布を取り出して中身を確認した。小銭はないが、千円札が辛うじて入っている。
「犬」
 呼ばれて、財布を制服のポケットにねじり込みながら顔を上げると、いびつに膨れ上がったドラムバッグを抱えて猿野が複雑な表情をして突っ立っていた。何だってこいつはいつでもこんなに荷物が多いのだろう、と思う。
「終わったか」
「ん」
「じゃあ行くぞ」
「え、えっとおい、犬コロ」
 さっさと歩き始めた犬飼の後を追いながら、困ったような声を出す。ドアに辿り着いてしまったので、まだ残っている連中にお疲れ、と声をかけた。犬飼も小さな声でお疲れ、と言い、おう、とかお疲れ、とか、またな、とかの返事を背中に受けながら二人で部室を出た。

「何なわけ、お前」
 金貸してくれる気になったのかよ、と、隣に並びながら睨み上げてくる。
「とりあえず、猿に貸す金はない」
「じゃあ何で一緒に本屋に行くっぽいことになってんだよ! 何だよてめえ自分だけ買って勝ち誇る気か!?」
 ケースに入ったままのバットを振り上げて襲い掛かってくるので、犬飼も肩にかけたバットを掴み軽く応戦する。
 生身でないだけ、まだそこまで猿野もキレてはいないということだ。が、ここはきちんと説明しないとなし崩しにバトルに及ぶ可能性大だと踏んで、犬飼はどうにか説明しようと口を開いた。
「貸す金はねーけど、お前の気持ちはわかる。あと、こちかめはオレも買うつもりだった」
 猿野の攻撃が一応やんで、それで何だと続きを促してくる。
「金の貸し借りとかめんどくせえから、今日はオレが買ってやる」
 目を丸くした猿野に、オゴリじゃねえぞと慌てて付け足した。
「へ、だってオゴリじゃねえって……」
「だからお前は明日オレに買って寄越せ。オレは一日くらい読まなくても平気だ」

 つまり、全く同じものを物々交換するというわけだ。ただ、発売日当日に買ったものと、翌日に買ったものという違いがあるだけの。
 猿野は口まであんぐりと開けて犬飼をマジマジと見つめていたが、しばらくしてプ、と吹き出した。
「かえってめんどくせーじゃんか」
 その笑いが好意的だったので、自分の提案は受け入れられたのだと、知れず犬飼は安堵する。


「二日連続で犬と本屋に行くハメになるなんてな」
 気持ち悪い、と騒ぎつつ、こちかめ最新刊をいつものように発売日に手に入れることになった猿野はご満悦だった。










「最新刊」  2004/05/25
猿野は単行本はコンビニで買わない派です。なので部活が終わったあと一度家に帰るともう買いに行けないんです。犬飼も本屋派ですが、本誌で読んでるものに関しては発売日とかには拘りません。
ちなみに私はこの程度ならまだカプじゃないと主張します。でもハタから見たら犬猿なので一応表記は犬猿。
子津は誰と帰ったんだというツッコミにはごめんなさい。忘れてました。