道はなめらかに坂になっているのに、土地は階段状に積み重ねられている。
古い団地は土地を平らにすることなく建てられたため、昔の丘の形をある程度そのまま残している。 少子化の影響か、古い公園には誰も居なかった。 南には急斜面、北には擁壁。切り離されたような感のある公園は、子どもが遊ぶには淋しいかもしれない。 けれども、慣れてしまえば自分だけの秘密基地を持てたような気がして、凪はこの公園が好きだった。 久しぶりに握ったソフトボールは少し重い。 薄雲の向こうの太陽を見上げ、目を細める。 体ごと壁に向き直り、距離をとる。 ゆるく放られたボールはとん、とん、と二度跳ねて戻ってくる。壁に跳ねて一度。地面に跳ねて一度。 膝の近くで捕球し、やはり野球ボールに比べると重い、と微笑む。 強めに投げると、今度は大きく跳ね上がった。少し慌てて、軽く飛んで、グローブの先で捕る。 指先が少しじんとした。 「相変わらず鈍くさいです」 呟く。 それでも、何度か投げては受けるうちに、大きくて重かったボールが、すっかり手に収まるようになる。 三年間、いや正確には二年半だが、毎日触れ続けたボールは、感覚を取り戻せばまだまだ硬球よりも自分に馴染んでいる。 野球部のマネージャーになった時は、結論が先だった。 高校に入ったら野球部のマネージャーになるのだと、当たり前のように思っていた。 ソフトボールを続けるのだとは思っていなかった。 自分は選手には向かないと思っていたし、今もそう思う。 中三の中総体ではレギュラーだった。それは、実力があったからではなくて二年と二ヶ月、真面目に部活に参加してきたからというだけだ。 選手としてのチームへの貢献は人並み未満だったと、冷静に考えていた。 結論が最初にあって、疑問も何もなく入部した野球部は、思いがけず馴染むのに時間がかかった。 土を掴むスパイクの存在感もじっとりと手を閉じ込めるグローブの重みも独特の視界を作り出すキャップの影もない放課後。 それに戸惑う自分がいたことは、否定できない。 もちろん野球部の日々は充実していて、中学までの自分より今の自分のほうがより幸せだと思う。 ただ、自分は当たり前に野球を愛すると同時に、ソフトボールだって愛しているのだ。 ボールが壁に跳ね、地面に跳ね、グローブに収まる。 ソフト部時代、部活のなかで一番得意だったのは多分この一人キャッチだろう。 他の部員と同じ練習量では、要領のいい子たちにはついていけなかった。部活の後、休日、こうやって一人で練習をした。 兄と一緒にキャッチボールをすることもあったが、彼は頑として野球ボールでやりたがったのでそうしょっちゅうではなかった。 あの素人大王に親しみを覚えているのは、きっと人知れず練習していたあの姿にかつての自分を重ねたせいもあるのだろう。 もちろん練習内容の激しさと量は比べようもないが。 「あれ、あれあれあれあれ凪さんッ!? こんなところでお会いするとはなんて奇遇ッ! ていうか運命!? イヤーン運命ッ??! ってすいません挨拶が先っすねこんにちわ凪すわん! 通りすがり猿野ッス!」 「猿野さん!?」 見上げると、例の素人大王が擁壁の上からぶんぶんと手を振っていた。擁壁の上は車道になっている。 ガードレールから身を乗り出している猿野は何故かきっちりとユニフォームを着込み、普段は被らないキャップを被った上にメットまで丁寧に載せ、バットを担いでいる。バットの先にはグローブがぶら下がっている。 かなりけったいな格好だが、凪も猿野の奇行には慣れっこなのでこの程度ではびくともしない。 それに、この格好はどこか懐かしい気さえする。 「どうしたんですか猿野さん、こんなところで……それにその格好」 訊くと、猿野は気まずそうに頭を掻きながら笑った。 「何つーか、罰ゲームなんすよ」 そっち降りてってもいいですか、と言うのに頷いて、左手をグローブから抜きながら自分も公園の入り口である階段の方へ向かった。 「何つーか、スバガキの家で集まってまったりゲームしてたんすけど、こう、途中でスバガキが飽きて、皆真面目にやってな〜い! とか言い出しやがりましてそんで罰ゲームかければ真面目にやるだろうだのなんだの、そういう流れで何故かオレが罰をくらうはめに……」 公園のベンチに並んで腰掛けると、猿野は言わずにおれんとばかりに語りだした。 「どんな罰ゲームなんですか?」 「貧乏中学の遠征スタイルで学区内一周……」 ああ、と凪は頷く。 どこかで見たと思ったのは、中学時代、野球部が実際にこんな格好をしていたからだ。 彼女の通っていた中学は第二次ベビーブーム世代が中学に上がるのに合わせて急設された学校の一つで、安造りの体現といわんばかりの校舎だった。 体育館や部室も手狭で、もちろん他校の生徒が使えるような更衣室などない。 近所の他の中学も似たようなもので、練習試合はあらかじめユニフォームを着てから行くのが当たり前だった。 ソフトボール部は大抵現地集合で親の送り迎えつきだったのであまり格好など気にしたことはなかったが、野球部は一度学校に集合してから、相手校まで走っていくというのが何故かパターンだった。 それは彼女の学校に限らず他校でもそうだったらしい。 そして登場するのがこの格好というわけだ。 「なんなんすかこの格好〜。バットにグローブはいいとしてキャップにメットってどういうセンスなんでしょうかねっていうか完全装備ユニフォームと見せかけてスニーカーっすよああもう恥ずかしくて明美死んじゃう!」 「アスファルトの上をスパイクで走ったら危険ですし、スパイクが傷みますから……」 「いやそれはわかってはいるんすけど……」 力なくつぶやいて、猿野が肩を落とす。 凪は柔らかくふふ、と笑った。 「きっと皆さん、猿野さんにもその格好して欲しかったんですよ」 「”にも”って?」 きょとんとする猿野に、本当に野球と関わらないで生きてきたんだなと、思った。 「中学野球では、その格好で町中を走るという風習があるんですよ。大勢で」 冗談めかして言うと、一瞬猿野はぽかんとして、次の瞬間には大声で笑い出した。 「アハハハハハ、ってことはあれっすか、司馬とか牛尾キャプとか蛇神様もこの格好を……ッ!?」 「おそらくそうだと思いますよ」 「アハハハハ、最高! しかも団体様で! 最高!!」 ゲラゲラ笑い続ける猿野に少しつられて笑いながら、このけったいな格好が猿野にはよく似合っていると思った。(牛尾や蛇神については置いておいて)司馬や、兎丸や子津たちがおそらく似合っていただろうのと同じように、今の猿野にはよく似合っていると思った。 ひとしきり馬鹿笑いして、それから猿野はすいませんと言って、また笑った。 「凪さんはソフトの練習すか?」 「練習と言いうか……気晴らし程度のものです」 ときどき自分でも体を動かしたくなるので、と小さく言って、凪は少しうつむいた。 ソフトボールより小さくて硬いボールを追いかけて、ソフトよりも広いベースの間を駆け抜ける少年の前では、何処か気後れする感覚があった。 野球をする者が野球を最高のスポーツだと思うのは当たり前だと思う。 そうでなくとも、凪だって、野球とソフトのどちらが好きかと問われれば少し迷うだろうが野球と答える。彼女の周りには女子が野球をできる場所はなくて、きっかけから言えばソフトボールは野球の代用だったのだ。 野球はソフトよりもスケールが大きくて、強い男子のスポーツだ。 だから猿野も思うかもしれない。 下手投げのお遊戯だと。 もちろん自分の前でそんな無神経なことを言う男ではないのはわかっていたが、何を言われるか、怖かった。 「気晴らしですか〜、ああ、自分の好きなことすんのが一番すね!」 明るい声に、顔を上げて猿野の顔を見た。 満面の笑顔だ。 ……よかった。 知らずのうちに笑顔が広がって、凪はこくりと頷いた。 凪が笑ったことが嬉しかったのか、猿野はへへ、と照れ笑いを浮かべながら頭を掻く。 それから急に顔を伏せて、控え目に言った。 「あっあの、オレでよければキャッチボール、お相手しましょうか?」 「……いいんですか?」 ソフトボールしかありませんけど、と首を傾げると、猿野はもちろん、と大真面目に言った。 「本当ですか? ふふ、嬉しいです。猿野さんとキャッチボールできるなんて」 よろしくおねがいします、と立ち上がる。 こちらこそ、と同じように立ち上がった猿野の顔が真っ赤なのは何故だろうと思いながら、凪は軽やかな足取りで猿野と距離をとるために歩き出した。 |
「ソフトボール」 2004/04/22 埼玉は土地平らだよと言われて凹みつつ書きました。猿の口調がまだわからん(汗)。ソフトボールを野球と比較して馬鹿にするヤツを許せません第一弾。そのうち御柳と野木と明神と上尾と袋田には個人攻撃させていただこうと思います。 予想外にラブくなった猿凪。ていうか、凪ちゃん鈍いなあ…。 |