自由行動日の移動費食費、そして土産代含め、小遣いは二万円まで。 足りるかよ! と間髪いれず叫んだ声に、充分だろう、お前はそんなに何を買うってんだ。と担任教師が返し。 もちろん―――と胸を張って答えようとしたバカの袖を手繰って投げ飛ばして黙らせ、その日は一日中しばき続けた。 ごく普通の中学校。三年生の修学旅行は例に漏れず京都。 埼玉の中学生なんて電車は日常だけど新幹線まで使う必要はあまりないから、初めての新幹線―――ひかりじゃなくてのぞみだけど―――に乗って一クラスで一箱占領、ウカレにウカレた空気の中をよそに、白雪は友人の顔を正面から見つめ、いや睨みつけていた。 でないと、今にも秘密にしておかねばならない企みを、声高に披露しはじめかねないからだ。 彼は、頭は悪くないがどうも軽挙な人間である。 反射神経に従って生きていきたいタイプだ。 一応、浅慮なわけではない。よく物事は考えている、が、どうも後付けなのだ。 それは正しい場合もあるけれど、時に愚かすぎる場合もある。 初めての京都は意外に小さかった。そしてきれいなところだった。 寺とか寺とか寺とかいっぱい見たけれどもあまり憶えていない。見るところがありすぎて、どこも高速移動だったから。 そして、この旅行のメインが、夜に待ち受けていたから。 夕食は17時半。食い終わり次第交代で風呂。19時から班長会議があって、20時に最終点呼、21時消灯。 今時の中学生は宵っ張りだから最近じゃもう少し遅くなっているかもしれないが、まあ当時の話だ。 このために、二人とも必死で班長になるのを避けた。会議なんて出るヒマなし。ていうか風呂入るヒマもなし。 そして同じ部屋のメンツにワイロを渡して―――― 目にも留まらぬ速さで飯をかっ込んで二人姿を消した。 ホテルからバスに乗って京都まで出て、JRで大阪へ、梅田まで歩いて阪神線に乗り換え。 道中、もっと早くて安い方法あったのに、と地元の人に言われたけれど、他にどうしたらいいかわからなかった。 当時のタイガースはまだわりと普通に(笑)弱くて、甲子園球場のチケットは平日なら当日試合開始後でも買えた。 その日は巨人戦じゃなかったのも幸運だった。 駆け込んでみたら、買えたのだ。 初めての甲子園球場は、もっと違うドキドキを想像していたのだけれど、ああそっか、お客さんとして入るのは普通なんだな、と当たり前のことをやけに新鮮に感じてみたりした。 すり鉢状の空間。見下ろす黒い土、遠いダイヤモンド。 それでも、聖地で観る野球は、別格だった。 滅茶苦茶に興奮した。 あいつら怪物だ、と彼は叫んだ。 グラウンドの上を走り回る選手たちが途方もなく眩しかった。 野太いトラキチの応援にしびれた。 試合終了後、二次会中の応援団の声が響くなか、興奮しすぎて潤んでさえ見える目で白雪を見て、彼は叫んだのだった。 「三年以内に、あのグラウンドをフラットな視界で見るんだ!」 あそこでプレイしよう、絶対にまたここに来よう。 固く誓いあった。中学時代の最高の思い出だ。 その後必死で大神の軽い頭に受験勉強をさせたのも、まあいい思い出だった。 十二支に入ってからの楽しさは、語るまでもない。 軽挙な彼は、約束を守る前に、反射神経に従って生ききってしまった。 な、と、約束だったはずのフラットな視界のグラウンドと、彼に託された命の背中を見た。 まだ夢の続きを追っているようなふわふわした気持ちが、静かに地に足を着ける。 このフラットな視界の、もっと先にある高みに、彼らを導いていかねばらなない。 二歩も三歩も、自分は踏み出さねばならない。 そう思えるのは、彼の軽挙によって苦しんだ子どもたちが、それでもこうやって彼の目指した場所に立っているからだろうか。 彼には、未練はあろうが悔いはあるまい。 浅慮ではないが軽挙で自分に素直でやりたいことに躊躇いのなかった男だった。 同じように悔いなく歩みたいものだと、じゃれ合う紺色のユニフォームに微笑んだ。 |
「反射神経男の約束」 2009/03/12 よりは前に書いた 77年生まれの従兄が実際京都修学旅行のときに甲子園に行ったそうです。 今時の中学生はこういうやんちゃはできないんだろうなあ…… |