練習が終わる頃にはもう日も落ちて、一日中炎天下の下で動き回って死にそうな
身体はピークを迎える。大抵の部員はとにかく早く帰りたい一心で着替えを済ませ、
鍵当番で無い限りは寄り道もせずとっとと家路につく。
家に帰ったら風呂に入って飯を食って寝る。そしてまた部活。部活。エンドレス。
こんな生活、と、数年前の俺ならげえっと舌でも出す所だろう。でもそれも、日々を
重ねて慣れてきた。
朝早く起きて朝練に行って、ぐったり疲れて夜もまだ深まる前に眠る。だんだんと
それが当たり前になって、するとそう苦でもなくなるのが不思議だと思う。



家に帰ってまず靴を脱いだ。そして靴下を脱ぎ、シャツを脱ぎ、ズボンを脱ぐ。
しんとした家に、お袋はいなかった。俺は偶然に感謝した。今ここには誰一人俺を叱る
相手は居ないのだ。そのままの格好で悠々と冷蔵庫を開ける。牛乳を取って、ごくごくと
喉を鳴らして飲み干した。パックに直接口をつけて飲むのはもう癖だ。普通の家庭なら叱られる事
かもしれないが、この家は俺とお袋の二人きりで、牛乳を消費する人間は俺しかいないので
叱られたことは無い。
テレビをつけて適当にチャンネルを回していたら、夕方のニュースにいくつか甲子園の特番が
やっていた。各県の予選試合の模様が賑やかに映し出された映像をバックに、
「現在の各都道府県の予選試合の流れです」とアナウンサーがボードを取り出して広げて見せる。
もう試合全てを終えている県もあれば、天気の都合で混戦していて終わりそうに無い県も
ある。経過は総じてまちまちだ。
埼玉は準決勝まで進んでいた。
俺達は、次の準決勝で華武と当たる事になっている。
俺は空になった牛乳の箱を潰し、テレビを消して立ち上がった。

シャワーを浴びて脱衣場から出た所で、玄関からお袋のただいまの声が聞こえた。
俺はタオルを頭からかぶって出迎えにあがる。
これは習慣で、約束事なのだ。ただいまとおかえりはきちんと言おうと、俺とお袋の
ふたりで決めた、決まり事。
「おかえり」
パンツ一丁で出迎えた息子に、お袋は案の定呆れたような一瞥を寄越した。
体についた水滴が廊下にぽとぽと落ちる。それも目で咎められたが、気づかないふりをする。
「しょうがない子なんだから」
はあ、とこれ見よがしに大きなため息をつくと、お袋は後ろ手に隠していた大きな白い箱を
俺に差し出した。
「はい。お誕生日おめでとう」
驚いた。
あんまり驚いた俺は大声を上げてしまった。
「覚えてたのかよ!」
「まあね」
ふふん、と得意げにお袋が笑った。
「あなたは忘れてたでしょう」と、にやにやと付け足される。
確かにすっかり忘れていた。
しかし認めるのも癪だ。それでも図星は図星なので、俺はむうっと唇を尖らせて
黙りこむ事しかできなくなる。
それにしても思い出した途端、この瞬間まで完全に失念していた事がとても残念な
事に思えてきた。もしかしたら部員の誰かに言えば何か奢ってもらえたかもしれない
のに、何か言う事を聞いてもらえたかもしれないのに、これは物凄く惜しい。野球部は
主にイベント事に寛大な連中で構成されているのだ。

生クリームとイチゴでコーティングされたホールケーキは、机の上ででかでかと
存在感をあらわしていた。面積半分がなくなったちゃぶ台の傍で俺は居所なく胡坐を
かく羽目となった。
「こんなのいいのに」と、台所に向かって言ってみる。返事はない。
今頃向こう側では、お袋が紅茶相手に格闘中なのだろう。蒸らす時間が惜しいくせにこうやって
機会があれば淹れたがる所を見るに、あの母親はケーキには紅茶と信じきっているのだ。
「ガキじゃねえんだから」
「あら、あなたまだ子供でしょうよ」
紅茶とスプーンとフォークがのったお盆を置いて、お袋はてきぱきとテーブルを整える。
俺は机に頬杖をつきながら、ついでに悪態をつきつつその手元を眺めた。こういう時は
何も手伝わない。食卓を用意する時の、お袋の迷いのない手元が好きなのだ。
暖かに匂い立つ紅茶をひとくち飲む。
ロウソクどうする、とお袋が言ったので、俺は断固とした口調でその提案を断った。
「もう17だっつーの」
「あらそう?つまんない」
残念そうに呟いて、ロウソクを仕舞い直すのに苦笑する。いくつになっても子ども扱いは変わらない。



ケーキと飯を食べ終わって、合間に少しいいワインを開けて、お袋の言う所の「誕生会」は
つつがなく終了した。
風呂に入るお袋を見送って、俺は二階の自室に引き上げた。さすがに腹が冷えて
いたので、そこら辺に脱ぎ捨てられたままのティーシャツを着る。
時計を見ると、時刻は8時を過ぎた所だった。
シャワーも浴びて清潔になったし、腹もほどよく満腹になっている俺は、うんと頷いて満たされた
気持ちで布団に寝転ぶ。そのままゆっくりとため息を吐いて、そしたらなんとなく、電話しようかな、
という気になった。
俺は寝転がったまま、鞄を放った場所までごろごろ転がった。
ケータイを引っ張り出してアドレスを開き、少し考えてから手始めに沢松にダイアルする。
子津っちゅ、キザトラ、スバガキ、後は思いついた順番に片っ端から掛けていった。
祝えとせびれば「おめでとう」がどんな奴からも簡単に返ってくる誕生日は素晴らしい。
一通り掛け終えて、俺は満足してまた布団にダイブした。
「17か」
と、ぽつり。呟いて、その響きをかみ締める。
後一年すれば18。その次は19。そうこうする間にあっという間にハタチがきて大人の仲間入りだ。
「あっという間だ」
本当に、あっという間だった。
特に15から16からにかけての夏までの時間は怒涛だった、と俺は思う。
凪さんと出会ったのが一番最初の怒涛の始まり。それから野球を始めて、仲間が出来て。
色々な事を経験して、本当の本気を知った。
絶対に負けたくない相手も。
「…」
俺は携帯のディスプレイに目をやった。
カチカチカチッとボタンを連打する。
アドレスが出てきて、そこから引っ張り出した番号を凝視する。
「…」
寝てるだろと思いながら、三回ほど待ってみた。
四回目のコールが鳴る前に、自分から電話を切った。
「…何やってんだ俺」
時計を見た。短針が11時を指している。
「やべ」
明日は朝から明後日の試合を想定した紅白戦が予定されているから、体力を温存させて
おかなければならない。体力には自信有りだけど、あの一筋縄ではいかない連中と
分かれて戦うとなると骨が折れるのは違いない。
寝る体勢のまま、伸び上がって蛍光灯の紐をひっぱった。電気がぱっと消える。俺は布団に
潜り込んだ。携帯についてる目覚し機能を、ぬかりなくいつもより早めにセットし直して
充電器につなぐ。
その時もう一度ディスプレイを見た。けれどやっぱり、着信はない。










何かがうるさい。甲高い耳に障る音がする。
俺は音のする方へ手を伸ばした。
頭から血がすっと下がっていく感覚。胃がむかむかとする。昨日のケーキが原因だろうか
とぼんやり考えを巡らせて、ゆっくりと目を開けた。明るさから察するに、まだ起きる
には大分早い時間のようだ。
「はいはいはいはい」
甲高い電子音を遮るべく、俺は渋々通話ボタンを押した。こうなると嫌でも頭も冴えてくる
もので、やっぱり嫌いだぜ体育会系はと思う。こういう所が変に律儀になってしまった。
『遅せえ』
電話の向こうの声はあからさまに苛立っていた。
俺は携帯を持ったまま少し考える。
けれどこんな朝早くかけてきて、そんな言い草をするような人間は一人しか思いつかない。
『出るのが遅せえ』
「うっせー駄犬、今何時だと思ってんだ」
というか、本当に何時なんだ。
俺は部屋を見回した。時計は間もなく五時を指そうとしている。
「いや、めちゃくちゃ早えし」
ジジイかよ何してんだよ。尋ねれば、ジョギングとあまりにも想像通りの答えが返ってきて
話のネタにもならない。
唐突に、『電話かけただろ』と、犬飼の相変わらず低くて聞き取りにくい声が言った。
コイツは本当に人と会話するのが下手くそだ。もしくは面倒臭いのかもしれないが、
何かもう一言あってもいいんじゃないのかといつも思う。
「あーしたした」
『何の用だ』
「あー…いや、」
なんつーか。
「実は俺、昨日誕生日だったんだよな」
言ってから、やっぱ言わなきゃよかったと思った。
返事は全然期待していなかった。犬飼から祝福の言葉なんてありえないし気持ち悪い。
じゃあ昨日の俺は何でこいつに電話しようと思ったんだろうと思った。思って、すぐやめた。
気持ち悪い答えしか出てこなかったからだ。
『…それはそれは』
電話口の犬飼は明らかに困惑した声だった。
そりゃそうだ、と意地悪くも俺は思った。自分達は普段喧嘩しかしない仲なのだから。
「そー。そんだけ。だから特に用は無し」
俺は自分でこの話を打ち切った。
「ダチに電話しまくった流れでお前にまで掛けちまっただけ。んじゃ、もう切るぜ」
我ながら苦しい。
そう思ったけど、構わずに電話を切った。当分、この話題については話したくなかった。


それからは結局眠れず、俺は仕方なく予定より30分早く家を出た。
夏の朝の空はもう十分に明るく、今日も暑くなりそうな気配を見せている。
人影のまばらな駅のホームはそこだけ静かな空気に包まれていた。その中へ、いつもの
混雑した車両が嘘みたいに閑散とした電車が駆け足でやってくる。
この瞬間が好きだった。夏の朝の空気が柔らかく馴染んでゆくのを肌で感じる。


学校には当然だが誰もいなかった。
ズボンとアンダーはそのまま着てきたので、俺は適当な木陰を見つけてユニフォームを着た。
そのまま木陰でストレッチしながら、まず走って身体を慣らそうか、それともトンボ掛けから
始めようかと迷う。
向こうから来る人影を見つけたのはその時だ。
目を凝らす暇もなく、人影はどんどんどんどん近づいてきた。
どんどんどんどん、足音を響かせてやってくる人影は、とうとう一人の人間になった。
日に焼けた肌を汗で濡らして、銀髪を乱したまま唸るように俺を見て言う。

「勝手に切るなバカ猿」

俺は犬飼の格好を凝視した。
髪はぼさぼさ、重そうに膨らんだスポーツバッグは肩に食い込み、片手に携帯電話を、もう片手に
鍵を握り締めているその様子を。
「…とりあえず」
目の前にぐっと、固められた拳が突き出された。そこから落ちてくる物を俺は反射的に受け取めた。
「部室の合鍵」と、犬飼は短く言った。
「…勝手に作ったやつだから秘密にしてろよ」
練習したい時に使えばいい。
それから、













おめでとう。












遠くなっていた蝉の声が、またじわじわと聞こえ始めた。
バカみたいだと思うなら笑えばいい。俺はその時確かに息を止めていたのだ。
「…勝手に作んなよ、ワリーの」
犬飼がむっとした顔をした。
その顔が変で俺は小さくふき出す。
そしたらもうおかしくて、バカみたいにおかしくて、おかしくておかしくて、笑いながら涙が出る。
「…とりあえず、誕生日だったからって今日の試合は手加減しねえから」
生真面目な顔で犬飼がお茶を濁した。
俺は笑いながら出た涙を拭いて頷いた。当たり前だ、とにやりと笑う。
朝早く起きて朝練に出て、日が落ちるまで練習して夜もまだ深まる前に眠る。
日々は単調な繰り返しで、それでも気がつけば日は流れて、季節は巡っている。
16の夏が終わって、17の夏がきた。
18の夏には何が変わるだろう。
それでも風のない朝、グラウンドの土の匂い、蒸し暑く乾いた夏の空気は変わらずここにある。



夏だな、と思った。

ありがとうと、思ったよりずっと素直に言えた。























小夏さんより:
遅くなってすいませんでした…!
季節が巡って、ほんの少し成長した二人です。
かのやより:
やっべ、こっぱずかしい!
照れ照れの夏が始まりましたよもー。
いつもありがとう!

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