のストレート




バットとグラブを片付けて戻ると、広いグラウンドにはひとっこひとり見当たらなかった。
野郎、帰りやがったな。
しばし呆然とし、すぐに溜息。らしいといえばらしけど、と猿野はポケットに両手を突っ込み、ブラブラと自分も校門へ向かった。

そういえば、犬は何でガッコに来たんだろ。

まさか愛犬の散歩コースに毎日十二支まで通っているとは思えない。
どっか寄ったついでか何かか?と聞きたくても、尋ねる相手はもういなかった。

ま、いーけどよ。
自分だって、なんで此処に来たんだと聞かれたら面倒だ。そんなの知るかよ。

夏陽はひとりごちる猿野の影を濃く土の上に落とした。
可哀想に、猫背の男が右へ左へあてどなく歩いている。
犬飼の影はどうだったろうか、と考えたら、急に何もかもがバカバカしくなった。

あれは、およそ自分とは対極の人間だ。野球さえなければ、一生関わることもなかった種類の人間だ。そういう意味では、凪さんは珍妙な縁作りの女神様だった。
やなキューピットだなオイ、とひとりつっこんだ所で、校門の右端から歩道に伸びる長い影を見つけて、猿野は目を細めた。

犬飼がえらそうに腕組みをして、校門の柱に寄りかかっている。
トリアエズは感心にもきちんと姿勢を正して此方を向いていて、猿野と眼があうや、尻尾をパタパタと振ってみせた。
トリアエズの合図で此方に気づき、マウンドでは一切目を細めようとしなかった犬飼が、眉根を寄せて猿野へ視線を向ける。

それは、いつかのデジャブだった。



―――心底呆れたぜ… 目障りだ消えろ バカ猿が



そう犬飼に罵られた、あれは6月の初めだった。
長袖のアンダーシャツが云うほど苦にならない、不安定な梅雨の季節。
まだ二ヶ月と経っていないのに、なんだってこんなに遠くに感じるのだろう。

あの時は、みんなで野球出来る時間が、もっと長いと思っていた。
やめると大騒ぎして、やめないと大騒ぎして、自分の意思ひとつで何もかもが賄えると思っていた。



思っていたのに。



「……何呆けてんだ、バカ猿」

怪訝な問いかけにハッと我にかえれば、犬飼のくたびれたビーチサンダルが目に止まった。
アスファルトの熱に形がひしゃげて、側面はすりへって、鼻緒の辺りなどビニルの色が退色している。
もう7月も終わりだもんな、と、猿野は静かに納得する。
もう7月も、終わりなのだ。

「……な、暑いから、氷食わね?」

このまま犬飼が家に帰る予定ならば、今しばらくは同じ道を歩くことになる。
学校前のコンビニを指して、猿野は犬飼を誘った。そこに大した意味はない。
暑いし喉も渇いたし、家で買い溜めしてあるシロクマを食べても良かったけれど、大通りの交差点で駅方向の犬飼はまっすぐ、自分は左に折れなければいけなかったし。

犬飼はフンと鼻を鳴らして、だけど手近なガードレールにリードをつないだ。そして、猿野からすればやっぱり気持ち悪いくらいに優しげな口調で、トリアエズに待つように指示を与えた。
それを了承と受け取って、猿野はさっさと店内に入った。ひんやりとした冷気が好ましい。
ふぅと緩んだ気分でクーラーボックスを物色していると、後から来た犬飼がぬっと手を伸ばし、
パピコを掴んだ。そのままさっさとレジへ向かう犬飼に、慌てて猿野も適当なアイスを取り出す。
会計の小銭でもたついている間すら、犬飼は待とうとしない。ガードレール脇にウンコ座りで
パピコをしゃぶりながら、トリアエズに何か話しかけたりその毛並みを漉いていたりする犬飼に、猿野は不貞腐れてみせた。

「なんだよ気持ち悪い声だしやがって。 犬に赤ちゃん言葉使うんじゃねぇ」
「使ってねぇ」
「うっせ。 なんで犬畜生よりオレに対する態度の方が悪いんだよ」
「当たり前だバカ」

おうおうおう、とガリガリくんで絡んでくる猿野を鬱陶しそうに払いながら、おまえだって子津とか報道部とかと態度違うだろ、と犬飼が睨む。
そりゃそうだ、とあっさり引くと、今度は犬飼が不貞腐れた顔をした。

「とりあえず、どこぞの山猿より飼い犬の方が可愛いに決まってる」
「可愛いとか云うな。 明美に惚れるな」
「だから、云ってねぇ」

不機嫌な横顔を盗み見ながら、猿野はひそりとほくそ笑んだ。
自分も大概口の減らないほうだと思うが、キャッチボールには程遠いものの、投げればゴロだろうがフライだろうがなんとか打ち返してくる犬飼の律儀さには恐れ入る。
だけど本当は、律儀なんて言葉、犬飼には似つかわしくない。

だから、逆だったのかもしれない。

もし野球を通して犬飼と出会っていなければ、例えば犬飼がただのクラスメートだったのなら、案外自分は穏便に犬飼と接していたのかもしれない。
腹の底ではいけ好かないヤツだと思っていても、だけどそんなのにいちいち反応してしまうほど狭量でもない。それは向こうも同じで、そもそも犬飼が、全ての人間に真摯に対応するはずもなかった。
多分、適当にやり過ごして、適当に挨拶したり、ちょっとした会話を交わしながらも、犬飼のあのひたむきさを知らないまま、自分の必死さも伝わらないまま、卒業してしまえばあーそんなやつもいたっけ、と笑って切り捨ててしまうような淡白な関係で、終わっていたかもしれない。

「……犬、吸ってばかりいると、最後に氷の塊残んぞ」
「……細かいこと煩ぇよ」

それを少しもったいないことだと思う自分がいるのは、どうしたことか。
理解し難い感情は逡巡を生んだ。だけど、蝉の声があたりに響く。
額に滲む汗がやまない。夏の盛りに自分の気持ちが追いつかない。

犬飼を、このまま家に帰したくない。

「おまえ、そういやオレにはストレートしか投げないのな」

持ち球いっぱいあんのによ、と猿野が笑うと、犬飼はぼんやりとした顔をした。
頭上で銀杏の葉が揺れた。光りと影がまだらに踊って、頬を掠めるように風が通り過ぎる。
この気持ちを、どう言葉にすれば、伝わるのだろう。

つなぎとめる手段も持たない自分たちの関係を、何故か今、壊したくてしょうがなかった。

「まだ拘ってんのか」
「でも、ねぇ」
「じゃ、なんで」

腹の中で爆ぜる言葉は、けれど違う問いとなって犬飼に投げかけられた。
埒も明かないことを聞いているのは、自分が一番わかっている。
だけど、犬飼にこの夏の寂寥を訴えても、きっと鼻で笑われて終いだ。
誰のための野球、だとか、何のための野球、だとか、そんな陳腐な言葉が犬飼の真摯さの前で何の意味を成すだろう。

案の定、犬飼は猿野のセンチメンタルに引きずられることなく、顔一面に不可解と態を表した。
それは、見様によっては単細胞だったり情緒の深刻な欠落だったりするけれど、



「知らね」



今、猿野が求めているのは、その強さだった。



あっさり言い捨て、下のほうの塊を砕くことに専念しだした犬飼に、猿野は深々と溜息をついた。
同じものを犬飼も抱えているかも、なんて少しでも考えた自分がバカみたいだった。だけど反面、それが正解な気もする。犬飼と傷の舐め合いがしたいわけではない。

ふいに、さっき泣き顔を見られたことを思い出して、猿野は顔を顰めた。
激昂しやすい自分の癖で、泣き顔を見られることはしょっちゅうだからこの際それはどうでもいい。
問題はあれだ。あの時の犬飼の態度。



―――猿、集中しろ



のんびり齧っていたガリガリくんから、ソーダ味の雫がたらりと流れた。
ヤバ、と急いで大口を開けて、残りの欠片に齧りつく。顔を上げれば、丁度犬飼も空の容器をクルクルと丸めているところだった。

「なあ、コーラ味のガリガリくん、食ったことある?」
「とりあえず、ない」
「なら是非今度食ってみろ。 ガッカリするから」

きひひ、と笑いながらゴミ箱に向かう犬飼を追いかけて、犬飼が蓋を開けたのに便乗して猿野は自分のゴミを放った。ストライク、と親指を立てると、トリアエズがパタパタと尻尾を振る。その言葉を良い言葉だと信じている可愛さに胸を打たれて、猿野はトリアエズに抱きついた。

「やめろ」
「おまえは本当に主人思いのイイヤツだな、トリアエズ」
「やめろバカ猿、離せ」
「でもな? ピッチャーには縁起のいい言葉だけど、オレらバッターにはとんでもなく響きの悪い言葉だって、それもわかってくれよ」
「なら自分が使うな、とりあえずトリアエズから離れろ」
「オレさっき、おまえのご主人様にボッコボコにされてさー。 三発もぶち込まれたんだぜ? とりあえず慰めてくれよトリアエズ」
「トリアエズにとりあえず云うな、ややこしい」
「その言葉そっくりそのままてめぇにリターンアドレスだこの駄犬が」

がし、とトリアエズにひっついて離れようとしない猿野に嘆息して、さっきのはてめぇのやる気の問題だろ、と犬飼はひとりごちた。へッと鼻を鳴らして、猿野はますますトリアエズにしがみつく。
そうじゃねぇだろ。ちがうだろ。やる気だけで制せるものなら、自分の後悔は底なしだ。

「……ちくしょう」

だけど多分、今の犬飼は正しい。
集中しろ、と犬飼は云った。集中しろ。何に?目の前にあるものに。これから来るボールに。
打てなかったかこの色々なものを後悔している間にも、新たな礫(つぶて)はやってくる。だから集中しろ。取りこぼすな。



犬飼は知っているのだ。
多分、自分より長く野球に関わってきた分、長く浴びた礫の分だけ。



「ちくしょう、てめぇこのヤロウ、…………よし!」

ふん、とトリアエズの毛並みに埋めていた顔を上げて、猿野は鼻水をすすった。
それをモロ見した犬飼が、汚ねぇ、とあからさまに顔を顰めたので、よっこいしょ、と弾みをつけて立ち上がりざま、

「発射!」

一発、大きいのをこいてやる。

ビクッと一瞬ひるんだものの、すぐにまた尻尾を振ってくるトリアエズに、おまえは本当に賢い犬だな、と猿野は頷いた。それに比べて、飼い主の方はお粗末だ。
それが浮上の証とも知らず犬飼は硬直して、頷く猿野に向かって人差し指を震わせている。

「ぁんだよ。 人のこと指差しすんな」
「…猿…てめぇ…今…」
「あぁ、屁ぇこきましたよ、屁ぇこきましたとも、屁ぇこきましたがそれが何か?」
「違う…イヤ違わねぇけど…じゃなくてソレ…そのケツのカタマリ…」

は?と猿野が訝しげに腰に手を当てた先、ポケットのふくらみに指が当たった。 
その先にひっそりと、ルージングボールの感触。

「てめぇ…ソレ…まさか…」
「あ、ヤベ」
「ヤベって…やっぱり…………うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「じゃなくて、あ、犬飼! 待てよ! 待ちやがれこのクソ勘違い野郎!!」

え、と猿野が振り返る間もなく、犬飼は雄叫びをあげると大通りめがけて走り去った。
ヤベって云うのはそうじゃなくて、パクッたことをどうこう云われるのかと思ったんで、という猿野の言い訳は、気管支すら通過出来ずに戻って来た。
トリアエズは何処まで賢いのか、すぐさま主人の奇行に対応したらしい。

尻尾をたなびかせて消えてしまったあの温もりを儚み、

「なんつー下品な思考回路だ…あんにゃろう…」

自分も追いかけてあの蟹味噌よりも容量の少ない脳みそをかち割ってやろうか、と拳を握りつつ、





だけど指先に触れたルージングボールが、猿野を思いとどまらせて。





ちくしょう。
だけど、やっぱ不味いよな。
オレに、オレの16歳に相応しいプレゼントは、コレじゃねぇもんな?





大通りへ走り去った犬飼とは逆方向、学校へ戻る舗道へ歩を向けながら、猿野は今一度振り返った。
そして、交差点の赤信号で足止めを喰らっている銀髪とその従順な犬に向けて、大きく手を振り、あらん限りの声で叫んだ。

「じゃーなー、いぬかい、あさってのいんたいしき、せいだいにやろうなー」

叫んだと同時に信号は青に変わってしまい、その声が犬飼に届いたかどうかはわからない。
走り去ってゆくその背を見届け、猿野もまっすぐに背筋を伸ばす。





雲間のない青空から、容赦なく照りつける陽射し。
じりじりと焼けていく肌、干からびていく唇、焦げてゆく思い、その何もかも。
全部引き受けて夏の最後を見届けてやる、と覚悟を決めて、今度はしっかりと学校を目指した。




おしまい!


ストレートのテーマはウンコだと打ち合わせで決まっていたはず。