真夏のストレート |
犬飼は鍵開け競争にノってくれなかった。 「キャッチボール、いいのかよ」 「いい。猿相手に準備運動なんかいらねえ」 ぐいぐいと肩を回しながら、一つだけグローブを出す。投げるだけでも一応要るらしい。 キーむかつく、といつもの応酬を半ば上の空で返しながら、グラウンドに向かった。 日当たりのいいホーム付近はいっそう暑く、汗ばんだ体がさらに重く感じられた。 太陽は南西。マウンドから見るホームは、真南。犬飼は左投げな分多少はましかもしれないが、太陽に完全に背を向けている自分よりはずっと眩しかろう。 なのに目を細めもしない。 惰性のように顎から汗が一滴落ちた。 肩に力の入ったバッティングは上擦って、いかにも「芯に当たりませんでした」という音がした。 ボテボテとファールグラウンドを転がっていくボールを、犬飼が小走りに追いかける。 バットが汗で手に張り付いている。 芯を捉えられず、肘に響く重さと、手の皮の剥ける感触。 いつもなら気にもしないそれを、いたい、と思った。 ぞくりとして、あの瞬間を思い出す。 重くブレる剣菱の球に、かすれもしなかった。ミットにボールが収まる音を、背中で聞いた…… スタンドから観客の、隣で紅印の歓声が上がり、セブンブリッジメンバーの、笑顔が弾け。三塁側から悲鳴と、落胆の声と、涙と。 大切な仲間の落胆と涙と。 大切な人の落胆と涙と。 「、くっ、」 バットを、持っていられなかった。 バッターボックスに、立って、いられなかった。 「おい!?」 突然バットを取り落とし蹲った猿野に驚いて、犬飼が声を上げる。 ピッチャプレートを一歩踏み越え、けれど駆け寄ることはせずにマウンドに踏みとどまった。 泣いても泣いても泣き足りない。 沢松の前でエロ本を握り締めて泣き、そしてまた今、犬飼の前で泣いている。嗚咽を止めることもできない。 あんな喪失を、こんな慟哭を、初めて体験している。 目の前に自分がいるのなら、叩き付けた拳で砂を掴んで投げつけてやりたい。 犬飼、お前は泣かないのか。 血を吐いて倒れたあの人にスタンドまで運ばれ、連打を浴び、最後までマウンドに居られず、負けて。 いっそ自分がいなければとは思わなかったか。なんと詫びればと自分を責めなかったか。 泣き果てた誰かが自分を責めているんじゃないかと怖くはないか。大切な人に失望されたかと怯えてはいないか。 オレは、お前を、責められやしないが。 お前やオレや誰のせいでもなく、あれは十二支の実力だったということを、誰もが理解してはいるが。 「おい猿」 ぼんやり顔を上げれば、犬飼はまっすぐにマウンドに立っていた。 立ち続けていた。 お前はそこに居続けるんだな、と思う。どれだけ挫けても、あれだけ挫けても、お前はマウンドに立つ。 ふらふらと立ち上がって、ぼうっと彼を見た。 お前はお前のためにしか投げないのだとしても、そこにオレなんぞカケラも関係ないとか、お前が思っていても。そこに、居てくれるんだ。 先への道筋が断たれたとしても、そこに、居て。野球を続けている。 「猿、集中しろ」 「え」 「投げるぞ」 すっ、と前に差し出された腕と、手の中のボール。 ゆっくりと投球フォームに入る犬飼に見とれながら、つられるように自然とバットをかまえていた。 この瞬間、バッターとピッチャーは完全に対になる。 細かいことは知らないがマウンドとホーム間、およそ25メートル。マウンドをこの世で一番近い場所だと思う。 そして射抜くようなストレート。 それ以外なにも見えなくなるような、あまりにもまっすぐな。 手許でずんと重さとスピードを増す、嫌な球。まっすぐなくせに打ち辛い。 振り遅れ、受け手のないボールはワンバウンドしてバックネットの基礎部分にゴスっと当たって戻ってきた。 ころころどこまでも行ってしまいそうなのを、足で止め、拾い上げて犬飼に投げ返す。 真剣な表情を崩さず、すぐに指で縫い目を辿る犬飼に、胃と心臓がずずんとなって、それからスっとした。 結局、三球目も当てられなかった。 負けた方が後片付け、とは言わないが、犬飼はグローブを押し付けてまっすぐ飼い犬を構いに行ってしまった。 だらだらとボールを拾いに行く。 また打てなかったな、と噛み締めた。 ボールに振り回されて、負け負けのオレ。 使い古されたボールに今また新しくついたばかりの、夏の匂いのする砂。 誰も居ないグラウンド。 たった三球じゃ振り足りないと、疼く腕。 初めて、ああ十二支の夏は終わったのだな、と感じられた。 オレは、まだ、野球を終わりたくないのだ、ということも。 ボールは、尻ポケットに捻じ込んだ。 部の備品だが、もらって行こうと思う。ついこないだ誕生日だったんだ、一個くらいいいだろう? ウィニングボールならぬ、そうだな、 ルージングボール。 |
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