のストレート



蛇口からばしゃばしゃと勢いよく水が流れるのを、猿野はじっとみつめていた。
犬飼が、とりあえずトリアエズに水を飲ませてやっていいか、と聞いてきたので(ややこしいことこの上ない、と猿野は突っ込もうか本気で迷った)、二人は部室の裏の水飲み場の横にある、雑務用の水道の前にいる。
水飲み場では背丈の関係で、犬は普通の体勢では届かないのだ。二本足で立ち上がるような体勢なら、トリアエズのような大型犬は飲めないわけではないのだが、どちらもあるのなら、普通に蛇口に口が届くこのような形の方が良い。

夏の日差しだ。猿野が今年までずっと迎えてきたものと変わり無い、夏の盛りの、ゆっくりと、それでも確実に体を蝕むような日差し。
ばしゃばしゃ、と犬が水を飲みはじめる。水がはねた。日の光が反射してきらきらと光る。
記憶の中の何かが頭を掠めた。地区大会に向けて馬鹿みたいに練習をしていた、あの初夏の酷く暑い日の水飲み場で、猿野はこれを見た、とふと思いだした。水を飲みに来た猿野の隣で、珍しく犬飼が水を頭から被っていて、頭を軽く振って浴びた水を飛ばしていたところだった。そのときも水の粒は今と同じように夏の日差しを反射してきらきらと光っていた。
ただ違うのは、あの時の方が目に映るすべてのコントラストがはっきりと強く、何よりも、猿野が生きてきた中で一番夏を感じていた時だった、ということだ。

「もういいのか、」

らしくない犬飼の柔らかい声が聞こえた。
犬に対する言葉。蛇口を閉める音。犬が尾を振る様子。
それをぼんやりと見聞きしながら、猿野は考える。
犬飼は、どうなんだろうか。
野球をずっと小さい頃からしてきた犬飼は、この、頭で分かってはいても胸につかえて取れてくれないこんなもやもやとした曖昧なものなんて、感じる事はないのかもしれない。いや、感じる事がなくなるくらいに、慣れてしまっているのかもしれないし、酷く辛いのにやせ我慢みたいなことをしているのかもしれない。
少なくとも何かしらの影響が言動や顔には出ていない犬飼を前に、自分は、と猿野は思う。
自分は確実に、まだどこかで受け入れられていない。
いとも簡単に終わってしまった、この夏のあっけない結末に対する、漠然とした虚無感だとか喪失感だとか。そんなものを感じずにはいられず、そしてそれをもどかしく思い、どう忘れようとしても、どこかで何かをずるずると引きずっている気がしてしまうのだ。

止まる事を知らない時は、確実に流れていく。
引継ぎだとかは休みが明けていつ行われる、という事を牛尾キャプテンはもう部員に公言していて、夏休みの練習もいついつからというのも、もう既に決まっている。
ただそれに三年の先輩達が出ないという事は、誰も何も言わなかった。

猿野は犬から目を離し、緩く空を仰ぎ見た。
夏だ。
雲だってまだ夏だ。この日差しも、蝉の声も、空気さえ。予選が始まる前と、なんら代わりの無い、夏だ。
夏はまだ真っ盛りだというのに、俺たちのあの夏は、もう。



「何ぼさっとしてんだ、猿」

日陰になっているところに、一応犬のリードを木に軽く括りつけ終えたらしい犬飼が、部室に向かって歩き出していた。少し足を止めて、怪訝な顔で猿野を眺める。
やりてえっつったのてめえなんだから、早くしろ。
逆行で見え辛いが、犬飼の目は確かにそう言っていた。

「わかってるっつの、」

腰を軽く下ろしている体勢を崩しながら、声を張り上げて猿野は怒鳴った。言いたい事が上手く言えない時のあのもどかしさが募る。
前にいる犬飼に、一体なんと問えば俺は正解だったんだろう。
考えても答えは出ない。答えがあるのかさえ疑わしかった。
何がわかっているんだ、と思う。何も、わかってない。本当は俺は、何もわかっちゃいないのに。
あの時どうして、あの球を打てなかったのか、さえ。

「わんこの球なんざ校舎越え余裕だしな」

例えばこれからする勝負で犬飼の球を打てたのなら、俺はどうしてあの時に打てなかったのだと悔やむだろうか、と考えた。暑さで浮かされそうになりながら、それは無いだろうなと猿野は思う。
犬飼との勝負において勝ち負けは確かに大事だったが、猿野にとって、相手が犬飼の時はいつもその勝負がつくまでの過程に胸が高鳴るということ、その事の方が勝敗よりも大切な事だった。
犬飼の殺気じみた本気だとか、呑まれそうになる雰囲気だとか。そういうものに、猿野はとてもどきどきしてしまう。投げる事だけを考えている犬飼は、普段の無味乾燥さとは違ったシンプルさを持っていて、好ましい類のものであるそれは、猿野に、こういう時の犬飼はもてても仕方が無い、と見るたびに思わせる。
そしてその投げるということにシンプルな犬飼は、バッターだけを見据えて、いつも自分の中で最高の投球をもって全力でかかってくる。その時の気迫だとかそういうものを直に肌で感じるのが、猿野は好きだった。

何か、こういうことを考えるとどういう話を経由しても(今回みたいな犬飼の話だとか、他のやつらについてもそうだ)結局いつも猿野は、自分は野球の何かが好きだ、と言うことに行き着くのだ。
例えば何か打てない球があったとして、それを打てるように自分なりの最大限の努力をして、僅かでも上達したことを見出す誰かがいてくれる、それは猿野を奮い立たせ、そうやって自分と関わる人を、猿野は好きだった。猿野の野球を構成するものには、そんな些細な好きなものが沢山ある。

犬飼はむかつく奴だ。そこに疑う余地はなく、そして弁解するつもりもない。
ただ、どんな不器用なやり方であっても、犬飼は猿野にとってその『誰か』である事に間違いはなかった。


「馬鹿猿、ついに頭も沸いたか、」

あの時打てなかったのは猿野の実力だった。
本当は猿野自身わかっていた。わからない筈がなかった。
自分の実力不足は確実なもので、そしてそれは先輩たちの夢を断ち切ったのかもしれない、こと。
最後の頼みの綱。チームメイトが自分をそう思ってくれているのは知っていた。それに答える事が出来なかったあの時の自分を、出来ることならば忘れてしまいたかった。向き合って、見つめる事はできそうになかったのだ。猿野は自分を欺こうとした。わかりきった嘘を信じ込ませて、ずっと本当にわからない振りをし続ける事で、忘れてしまおうとした。
考えれば考えるほど好きだと思える野球に嘘をついて。
いつも通りに、馬鹿をして、笑って。
何もかも気にしていない振りを、して。

ずっと、どこかわだかまりをぬぐえないまま。


そんな努力を嘲笑うかのように、終わってしまった夏をずるずるとひきずって、こうやってグラウンドにふらふらと来てしまった今の自分と、
あの試合で打ち込まれ、負け投手になってまだ尚、何も顔には出さず、マウンドにあがり続ける犬飼がいる。

「っせえ、先鍵開けた方が勝ちだからな!」

後ろを振り返らず前を向いて進めそうか、と問われたら、猿野はまだ答えられない。
この勝負が終わったら。
猿野は鍵があるはずの植木鉢の方に走り出しながら考える。
この勝負が終わったら、俺は何か、変わっているだろうか。



水飲み場付近の、コンクリートの地面に散らされた水が、きらきらと光っている。
僅かに、あの初夏の色がけぶった。
夏の匂いがする。




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夏の終わりの定義