のストレート



アスファルトの向こう側、ゆらゆらと、陽炎のようなものが見えた。
ジーワジーワと蝉の鳴き声が聞こえる。それ以外、他には何の音も聞こえない。
誰もいない校舎。誰もいないグラウンド。
静まり返ったその場所に、猿野はそっと足を踏み入れた。
足元の乾いた土が、ジャリ、と小さな音を立てる。
グラウンドの真ん中まで全速力で走った。
過去の恩恵であれ、力を入れているだけあって、さすが中々に広い。
グラウンドのど真ん中。
息を切らせながら、猿野はばたりと倒れこむ。
べっとりと濡れたTシャツが、硬い地面にじわじわと馴染んでゆくのが分かる。
目を開けると、すぐ目の前に黄色い太陽が光っている。
見ていられず、再び目を瞑る。
荒い呼吸。蝉の鳴き声。じりじりと何かが焼ける音。
瞼の裏で、小さな光がぱちぱちと爆ぜた。







引継ぎや、送別会や、色々な事を後回しにして夏休みは始まった。
だからだろうか。終わったのだという事を、猿野はずっと実感しきれずにいる。
熱病みたいに懸命に、来る日も来る日も繰り返してきたことが、突然、あっさりと終わってしまった。
何かにこんなに懸命になったのは、猿野にとって初めてのことだった。
それがこんなにあっけなく終わってしまう事も。
家に居ても、気晴らしに出掛けても、いつもどこかで考えていた。
頭の端へ追いやろうにもくすぶった熱は一向に冷めず、いつしか、猿野はひどく苛立つようになった。
あんなに。
あんなに、一生懸命だったのに。
あれから、何かが淡々と片付けられてゆくのを、猿野は肌で感じていた。
盆暮以降の練習に、三年の先輩達が顔を出す予定はない。
秋前には引継ぎが行われる事になっている。
新しいキャプテンは虎鉄ではないかと言われていた。








ベロリ。

「?!」

唐突に、水っぽい何かが頬を辿った。
そのあまりの気持ち悪さに、猿野はぐわっと目を開けた。
視界いっぱいにふさふさとした毛並みの犬が映りこむ。
一瞬固まってから、猿野はがばっと跳ね起きた。
心持ち距離をとりながら、べっとりとした頬を拭う。
さっきの感触はこの犬か。
犬ははっはっと熱そうに息を吐きながら、お座りの姿勢のまま、
モップみたいな尻尾をゆらゆらと揺らしていた。
噛み付こうとも襲い掛かろうとしているわけでもなく、ただじっと猿野を見つめている。
まるで触られるのを待つペットショップの犬みたいに。
どうやらおとなしい犬らしい。
そう判断し、猿野はやっと詰めていた息を吐いた。
「…ったく」
おいでおいでとすると、案の定犬はいそいそと近づいてきた。
頭を撫でてやると、くうんと鼻を鳴らす。
顎の下の毛をかき混ぜるようにすれば、拍子にペろりと手を舐められた。
捨て犬じゃないよな、と猿野は思う。
どう見ても躾けられているし、毛並みも柔らかくてつるつるとしている。
「お前どこの犬だ?逃げてきたのか?」
犬は、黄金色の毛並みをつやつやさせながら首をかしげた。
濃いブラウンの瞳が中々に賢そうだ。
「首輪も無いしなー」
犬の胴を撫でながら、猿野はまた座り込んだ。それに伴って犬も座る。
「お。賢いな」
頭を撫でると、頬をぺろりと舐められた。ワン、と機嫌よさ気に犬が吼える。
不意に、ジャリ、と砂を踏む音が聞こえた。



「何してんだてめえは」



降って来た声に、猿野は一瞬怯んだ。
しかしすぐに体勢を立て直し、怒ったような顔を作る。
猿野はくるりと振り返った。
「てめえこそ」
犬飼冥は、ハーフパンツにTシャツで、ビーチサンダルを履いていた。
片手にリード付きの首輪と、ビニール袋を持っている。
うっすらと透けた中には、白地に青い模様がプリントされた、紙製の
スコップのようなものが見える。ペットのエチケット袋といった所だろう。
「トリアエズ、来い」
ちっとも名前らしくない名前を呼ばれ、犬は勢いよく飼い主の下へ駆けた。
猿野は砂を払って立ち上がった。背中も尻も、もう払う必要も無い位汚れていたけれど。
トリアエズ、と呼ばれた犬は、リード付きの首輪につなげられ、窮屈そうに身をよじった。
その頭を撫でながら、いい子だ、と犬飼が言う。猿野はそれを、冗談みたいな光景だと思った。
あの犬飼が。
「散歩中、いきなり逃げてな」
トリアエズを撫でながら犬飼が言った。
「珍しい事もあるもんだと思ったら、猿がいた」
「けっ」
「こんな所で何してんだ」
犬飼は、今度はちゃんと猿野の方を見ていた。
猿野は一瞬、何も言えなかった。
何をしているのか、だって。
そんなのは、自分の方がよっぽど知りたい。
「…別に」
目を逸らし、猿野はぐっと拳を握った。
別にとはなんだ。言い訳にすらなっていない。
犬飼はまるで探る様に、じっと猿野を見ていた。目を逸らした猿野にも
分かる位あからさまな視線に、猿野は居た堪れなくなって言葉を探す。
「なあ」
「なんだ」
犬飼が間を入れずに言った。
猿野は顔を上げて、犬飼を見た。
「勝負しようぜ」
言いながら、部室の方を指差す。
予備の鍵が、植木鉢の下に隠してあることは知っている。
犬飼はしばらく猿野を見た。
やがて、フン、と鼻を鳴らし。
「手加減はしねえ」
上等!と言って、猿野はにやりと笑った。
思い付きで言った事なのに、どきどきと胸が高鳴った。




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わんわりすぎて、外したというよりは、大暴投。(←お題のうんこのことですよ…)