メロディ・ゴウズ・




二度のノックの後、礼儀正しい声が聞こえてきて、岡本は通知表に判を押す手を止めた。
大人びた声だと思ったが、すぐに生徒のものだとわかった。
教官室に入るとき、大抵の教師はノックをしない。
「入っていいぞ」
通知表をさりげなく横にやりながら返事を返す。
ドアはすぐに開かれた。
眼鏡を掛けた、神経質そうな男子生徒が一礼をしてから入ってくる。ああ、何だ。
「辰羅川か」
「はい」
辰羅川、と呼ばれた男子生徒は、眼鏡の奥の目を細めてにっこりと微笑んだ。
笑うと神経質そうな雰囲気が和らいで、意外に子供らしい表情になる。
「どうした、何か用か?」
「はい、部の鍵を返しに来ました。今日は私が当番なもので」
「そうか。ご苦労様」
「いいえ」
あまり話をしないタイプの生徒だったが、岡本は、辰羅川になかなかの好感を抱いていた。
何をするにもソツが無く、成績はいつも首位を独占し、周りの教師からの人望も厚い。
かといって勉強だけに偏っているわけでは無く、インテリ系かと思えば、野球部に所属していたりする。ポジションはキャッチャー。なんと一年生でレギュラーになったとか。

それに比べて。

残り少なくなったコーヒーを注ぎだすべく、岡本は苦い顔で席を立った。
昼間起こったひと悶着を思い出してしまったのだ。
同じ生徒でも、何故こうも違うのだろうかと思う。
あの、猿野と犬飼。
「なあ。お前、犬飼とバッテリー組んでるんだってな」
岡本はコーヒーを啜りながら、ホイッスルとタイマーを片付ける背中に声を掛けた。
棚のガラス戸を閉め、辰羅川が不思議そうな顔をして振り向く。
「はい」
首を傾げ、「それが何か?」と、今度は逆に尋ね返される。
「いや…」
当然の反応に、岡本は後ろ首をがりがりと掻いた。
つい、誤魔化す様に早口に言葉を話す。昔から、不意打ちの質問は得意ではない。
「ただ、あれとあれはいつもああなのかなと思ってな」
言ってから、どうでもいい話だ、と今更ながら岡本は思った。
こんな話、振られた辰羅川も困惑するだけだろう。
「あれとは?」
ほら、怪訝な顔をしている。
「ん。猿野と犬飼だよ」
この話はもう終わりにしよう、と思って、岡本は別の話題を頭に思い描いた。この前まで大騒ぎだったサッカー、これから始まるバスケットの大会。
でもそれは、辰羅川の言葉にすぐに掻き消えてしまった。
「…ああ。あの二人ですか」
納得したように頷いた後、辰羅川はこぼすように苦笑した。
眉根を寄せ、困ったような表情を作る。
笑っていたが、表情は大人のそれだった。不思議なものをみたような気がして、岡本は一度だけ眼をぱちりと瞬かせた。
「仲は、悪いですね。でも本当は違うと思います」
「…そうなのか?」
一瞬訝しげな顔をした岡本に、辰羅川はくすりと笑った。
「難しいんです」
生徒に笑われたのにちっとも不愉快にならなくて、何故だろう、と思いながらも、岡本は、学年一頭のいい辰羅川が難しいと言うのだから、体育に自信はあるが他はからっきしの自分には到底溶けない難題なのだろう、と思った。そもそも人の心の中なんてわからない事だらけなのだし。
岡本は、うん、と頷いた。
「そうだな。難しいな」
二杯目のコーヒーはすっかり温くなり、ミルクが底に沈んでしまっている。
それをスプーンでかき混ぜながら、岡本は、次あの二人が何かやったら、今度こそ反省文を書かせようと思った。








「ありがとうございましたー!」
おばちゃんのハリのある声を背に受けながら、表に続くドアを犬飼はゆっくりと押し開けた。
手には緑とオレンジで店名が書かれた袋が二つ。
コンビニ横の小さな公園は、日に焼けた木の看板が寂れた印象をより深くしていた。
ここは遊具がブランコと砂場しかないので、休日でもいつもこんな状態なのだ。
ブランコの傍まで来ると、犬飼は無言で男に近づいた。
目の前に仁王立ち、その内一つを男にずいっと差し出してみせる。
「やる」
唐突に差し出されたそれを、男、猿野は怪訝な顔で凝視した。
「何だよこれ」
「やる」
「中身の事言ってんだよボケ」
「冷やし中華だ」
一瞬、猿野が少しだけ眼を見開いたように見えた。
「…ふうん」
数秒間、妙な沈黙が生まれる。
差し出したままの格好でいるのがいい加減気詰まりになって、犬飼は袋を放る様に猿野に投げた。
それを猿野が受け取めるのを確認した後、ようやくベンチに腰を下ろす。
すると自然と向こう側の猿野と向かい合う格好となり、その状況に、お互いに睨み合いながらも黙り込む。
また、沈黙。
小さな公園には人気は無く、時折、公園を跨いだ道をプール帰りと思しき小学生の群れがわいわいと通り過ぎて行った。
木々の隙間から漏れる斜陽。風に乗って運ばれるわずかな塩素の匂いは、自分からだろうか。それとも猿野からだろうか。
先に視線を外したのは猿野だった。
「あー、やめやめ。腹減った!」
いただきまーす。と、高らかに宣言する。言うや否や袋をがさがさと漁り始めた。
遠慮ない動作に何故か安堵しつつ、犬飼もそれに伴って袋を漁った。雪印のコーヒー牛乳。食パンがなかったので、パンは仕方なくフレンチトーストを買った。
ちらりと正面を見ると、猿野は美味そうに冷やし中華を啜っている所だった。
麺をずぞぞと頬張る顔は頬袋が張っていて、犬飼は少しの間その食い付きぶりをちらちらと眺めた。
謝るべきか、否か。
そういう事を、ぐだぐだと考えあぐねながら。









引き摺るような格好でここに連れてくる最中、文句を言いながら、猿野はそれでも付いてきた。
なんだよー、とか、わけわかんねえんだけど、とか、色々なセリフを背中に受けながら、犬飼は必死だった。
とにかく早く、このもやつきをなんとかしたい。
追いかけて、引き止めたまではよかったのだ。
けれど猿野を目の前にした途端、さっきまで頭から突き抜けるようにあった決意は脆くも崩れ去ってしまった。
怪訝な顔をする猿野を、いつまでも引き止める事は犬飼には無理に近いことだった。
普段ろくに話もしないものだから、こんなときに何と言えば自然になれるのかなど知るはずもないし。
動かない犬飼に、猿野は呆れたようなため息を吐くと、俺、帰るけど、と言った。言いたいことがあるんなら言えよ。
無理だ、と、犬飼は思った。
多分、言いたい事は山ほどある。自分に対しても猿野に対しても。
けどその中の一つも、言葉になりそうなものは何も無かった。
どう言ったらいいかなんて、どうやったら傷つけずに済むかなんて、そんな事、考えたことも無かったから。
だから犬飼は咄嗟に、そう、咄嗟に、付き合え、と、そう口走った自分に驚いた。
驚いたまま、急いで顔を上げた。今言った事が嘘にならないように。
猿野は妙な顔をした後、呆れたように目を細めた。
言えんじゃん、と、不貞腐れたように唇が動いて、声ははっきりと笑っていた。








ペプシでこれ以上ないほどに下品なゲップをした猿野は、満足したように口元を拭うと、ニッ、と、それはそれは嬉しげに笑いかけてきた。
「ごちそーさん。ウマかった」
腹をさすりながら、あー、と言ってブランコから立ち上がり、もう一つのベンチに寝転がる。
犬飼は困惑した。
別に、そんな風に礼を言われることをした訳じゃない。
これは言うならば借りを返すというか、何というか、謝るとか決してそういう意味ではなくて、だから、と心の中で言い訳する。
ああ、またわからなくなってきた。
ベンチに座ったまま、犬飼は上を向いた。
葉脈が日に透けて、辺りはうっすらと緑色に染まっている。
木々の隙間から零れる日差しに、眼がくらくらと痛んだ。
不意に、小さく笑う声が聞こえてきて、犬飼は顔を戻した。
猿野だった。
猿野は寝転んだまま腕の隙間から犬飼を見て、さもおもしろそうに更に笑みを深めた。
「何がおかしい」
自分の声がやけに弱々しく響いたので、犬飼は急いで猿野を睨みつけた。
猿野はくつくつと笑ったまま、違う違う、と言って身体を起こした。
「お前はいっつもそうだよなあと思って」
呑気な声に、犬飼の目に更に険しさが篭る。猿野はおどけた風に肩を竦めた。
「それ」
「…?」
「眼だよ眼。今チカチカすんだろ?」
「…ああ」
訳がわからない、という顔で、犬飼はむっすり頷いた。
確かに今、眼はチカチカしている。でも何故猿野はそんな事を知っているのだろう。
「お前の眼ってさ、色薄いから光にあんま強くないんだろうな。部室からグラウンド出る時もいっつもその眼してるぜ。 慣らしてから見ろよって、俺いっつも思ってたんだけど」
くっ、と猿野がまた思い出したように噴出す。
「なのにさっきも太陽見て、まーたしぱしぱしてただろ。お前。ちょっとは学習しろよな」
「…」
見てたのか。
思った瞬間、ぐわ、と、一斉に熱が集まったのがわかった。
なんと言っていいかわからず、犬飼は黙った。
言いたい事はあるのだが、どう言えばいいのかわからない。
悶々としていると、ひとしきり笑った猿野がベンチから立ち上がった。
帰るのかと思ったが、カバンは置いていったので多分用でも足しに行ったのだろう。

公園奥のトイレに遠ざかってゆく猿野の背中を横に見ながら、犬飼はベンチから立ち上がった。
無言で正面のブランコに近づく。
ブランコは大分古くて、鎖の部分は錆びていた。木で出来たイスの部分は黄色い塗装が剥げて木の色がむき出しに見えている。
腰を下ろすと、カシャン、と硬質な音が響いた。
低すぎるイスに窮屈さを感じつつ、足を折ってゆらゆらと揺らす。
久しぶりに乗ったな、と思った。
昔から犬飼は、こういった遊び道具にあまり関心を抱かない子供だった。
幼稚園でもブランコの取り合いに参加することは一度も無かったし、小学校時代は野球に夢中だった。中学校からは学校の遊具も消え、その存在すら忘れかけていた。実際、こんなもののどこが楽しいのだろうと思う。
ゆらゆらと揺れる度に、ブランコは不吉な音を立てて軋む。
でも、あいつは。と、犬飼は思う。
でも、あいつは多分、こういうのが好きなんだろうな。




「犬飼」




降ってきた声に、犬飼は顔を上げた。
瞬間、ピシャッ、と、温い水が頬に額に顎に眼に浴びせられる。
何をされたのかわからずに呆然としていると、見下ろすように猿野がこっちを見ていた。
「お返しだぜ」
手のひらからしずくを滴らせて、新緑越しの太陽を背に受けて。
いたずらの成功した子供のような顔で笑う。
犬飼は思わず目を細めた。
眩しい。
「…何しやがる」
睨みつけてもちっとも怯まないものだから、早々に諦めて、シャツでごしごしと顔を拭いた。
汗の滲んだシャツは水滴も一緒くたに吸い込んで、また少しだけ重くなる。

本当に、お前は、俺に何をしたんだ。

「だからお返しだってば」
猿野はズボンで手を拭きながらにやりと笑った。
「なんか気にしてたみたいですしー?」
いきなり図星を突かれ、犬飼はぐうっと唸った。
何がおかしいのか、猿野はにやにやと意地悪な顔で犬飼を見る。
「別に気にしちゃいねえっての。ったく、バカ犬が似合わねえ事してんじゃねえよバーカ」
じゃあなんでそんなに嬉しそうな顔をしているんだ。
犬飼はまた、腹の底が熱くなるような感触を感じた。


何なんだ、これは、一体。


「…悪いと思っちゃ、悪いのか」

低い、低い声だった。
猿野が、え、という顔をした。
「気になったら、悪いか」
構いたいと思うのも、引っ掻き回したいと思うのも、お前だけだと言ったら猿野はどうするだろうか。
困ったように眉を顰める猿野を見据えながら、犬飼はそんな事を思った。
自分がこんな風になってしまったのはお前のせいだって、言ったら。
「俺がいつお前の事が嫌いだなんて言った」
溢れ出す。止められなくて、水の中で息継ぎしたときのように鼓動が早くなる。
この勢いに覚悟を決めて、犬飼は静かに息を吸い込んだ。
うまく言える筈が無い。けれど、少しでも猿野に届くといい。






太陽はますます勢いを増し、真上から見下ろすようにさんさんと照りつけている。
きっと、今までで一番暑い夏になるはずだ。





おしまい!


ミュージックスタート