メロディ・ゴウズ・




なるべく猿野を視界にいれないようにと、机の角から目が離せない自分が、犬飼はどうにも情けなかった。

岡本の説教はしつこい。
犬飼自身は一度入学当初頭髪の事で教師に呼び出されて以来、こんな面倒なことになった事はないが、いつか放課後に猿野が岡本に呼び出されたときに部活に帰ってくるのが遅かったのは覚えている。
もっとも、面倒なことになった事はないというのも、それは大いに辰羅川の努力によるものだというのは犬飼以外の周知の事実だったが、犬飼自身は気付いているはずも無かった。
うだうだと右から左に抜けていく説教は犬飼にとって無意味で、無論犬飼の頭の中には、説教の内容は残ってなどいなかった。
それよりも先ほどから、説教の隙間を埋めるような猿野の手馴れた受け答えや話ばかりが意識にひっかかってしかたがない。本当に中身も録に無いなんでもない受け答えと話で(話の内容は俺についてが多かった)、その上それは猿野のものだ。岡本の説教がこの部屋の殆どを占めているというのに、俺は、猿の声だけを拾っている。
犬飼はこのありえない事態を上手く説明できうる理由を焦って探したが、上手い説明は見つからず、多分俺がさっきのことを少しでも悪いと思っているからだ、と思うことにした。今回の冷やし中華事件が起こる前からの違和感に気付いていない訳ではなかったが、心穏やかに物を進めるには余計な事を考えるべきではない、と一人得心していた。

横で岡本の説教を上手く聞き流している猿野はえてしていつも通りだった。
現在進行形で説教中の教師の前では流石に犬飼にちょっかいをだす余裕はないようで、いちいち、すいませんってせんせー、となれた様子で返事を返しているが、この部屋に、失礼しまーす、と言って入ってきて、犬飼を見つけて僅かに驚いた顔をした猿野は、声こそかけては来なかったが怒り心頭しているというわけではなさそうだった。
だが逆に、それはそれで怖い、とも思う。犬飼は、てっきり猿野が怒っているものだとばかり思っていて、そして自分達の関係ではそれがもっとも自然だと無意識のうちに考えていたからだ。その「自然」が成り立たない自分達は、やはり何かまずいのでは、というのは犬飼も感じていた。

「…、…きいているのか犬飼!」
「、!」
「ちゃんと反省してるのか」
「…はい、…すみません」

一方、悶々とした迷宮入りしそうな思考に潜り込みかけていた犬飼を見て、岡本はため息をついた。
どうして俺はこんな反省も反応もろくに何もないような奴に説教を垂れているんだろうと危うく流されそうになったが、犬飼にとっては事故とはいえ、殴られ鼻血を出された手前、引き下がるわけにはいかなかった。
体育教師岡本37歳、教師としてのプライドは守り通したい。
かといって、と岡本は考える。かといって、何を考えているのかわからない目の前の生徒(しかも腹が立つことに嫌という程ルックスはいいのだ)のようなタイプは岡本は昔から扱いが苦手だ。今は昔ほどではないが、それでもまだ苦手で、あまり好きではなかった。教職という職についていても、ある程度の好き嫌いは出てくるものなのである。目の前の犬飼は、確実に、好きではない部類の男だった。
その点猿野はいい、と岡本は思う。明るく、接しやすい。言動、態度はどうだと言われればそれまでだったが、少なくともじっと机から目を離さない犬飼という男よりは随分と好きだった。立場として色々と真逆な位置にあるであろう二人が、どうしてこうも仲良く二人で問題を起こすことになるのか(体育教官室にきた羊谷が、この間愚痴を零していた)、岡本は未だよくわからなかった。

「大体な、今回といい、今の話といい、」

目を合わせることすらかなわない犬飼は諦めて、岡本は軽く額に滲んだ汗を拭い、猿野の方に向き直った。猿野は、なんすか、というように岡本を見る。どうでもいい事だが、と考えながら、岡本はそれを口にした。

「猿野お前な、そんなに犬飼に気があるのか?」

一瞬にして部屋の空気が止まってしまった事には気付かず、そのまま、反省してるようだし明後日までに原稿用紙二枚の反省文を提出、わかったな、俺はバスケ部の顧問の仕事があるから、お前らももう帰って良いぞ、となどと椅子から立ちあがりながら言って、なんとかこの場を保っていた何かを見事にうち壊してほうりだしたまま、岡本は教室を出ていった。





さるのおまえな、そんなにいぬかいにきがあるのか?





気がある、というのはどういう状態を指すのか。
犬飼は解らなくなっていた。こういうのは困るのだ。どこにも答えのない、こんな事はこまるのだ。
あのロッカーにある道具箱の中のもので解決出来ない、野球以外の事が、犬飼は苦手だった。
教科書にでも書いてあるのだろうかと思ってすべての教科書を調べた事があったが、一度だって何かしらのヒントですら書いていた事はなかった。
野球のように、指導してくれる人がいればいいのに。
こういう、人との関わりだとか、そういったものについて。


あの後、帰るか、と猿野に声をかけられて、犬飼はただ頷き、猿野に続いて教室を出、正門を出た。猿野の数歩後ろを歩く。
何かを言わなければならない、というのはわかっていた。ただ、犬飼は今に至るまで、このような状況になった事がなかったのである。このような状況、というのはつまり、何らかの理由で気まずくなった相手とのこの距離をどうにかしようともがいている、今の犬飼の状況のことなのだが。
今までなら、そう、今までなら、ただ切り捨てるだけだった。
必要最低限のものしか持つ事が出来ず、そのうえ必要なものが極度に少ない犬飼は、今に至るまで明らかに人より多くのものを切り捨ててきた。人でも、ものでも、一緒だった。ただ関わらないだけ、それだけだった。
目の前にいる猿野も、犬飼にとって、切り捨てる事が出来る程度のものの、筈だった。

「岡本さ、なんでああ言ったと思う?」
「…、…」
唐突に話を振られて、犬飼はとっさに返事をしそびれた。猿野は立ち止まらない。犬飼のほうは見ず、前を向いたまま少しの間をあけて、話を続ける。
「…あれな、俺がお前のあることないこといっぱい言ったからだぜ?
 なんでそんな犬飼にいちいちお前は突っ掛かるんだっつう意味だ、多分」
「……」
「お前聞いてなかったみてえだからしらねえだろうけど」
「……」

お前はきいてねえししらねえだろうけど、俺はお前のこと、いっぱい喋ってたんだ。お前かっこよくて腹立つし、すげえ無愛想で、偏食だし、んで犬だし、やったらやりかえしにくるし、手加減ねえし、俺の誕プレぐちゃぐちゃにしやがるし、常識ねえし、なのにもてるし、野球だけだし。
俺のこと、嫌いだし。

「……どうせお前は俺なんか鬱陶しいから突っ掛かるってだけで、どうでもいいんだろうけど」


―――もっとこう、普通な感じになってもいんじゃねぇの?


あの時の、猿野の声がふいに蘇る。
夏の夜の風の匂いだとか、パピコをしゃぶる猿野の口だとか、自分よりも少し狭い背中、
あの時とは関係の無い、いぬかい、と呟いた、声の聞こえない口の動きだとかと、一緒に。

―――おまえ、変に突っ掛かってくるばっかで、もうちょっとこう、普通にオレと関われねぇの?


「まあ、岡本にお前のこと結構無茶苦茶言ったし、これでチャラな」
そう言ってから数歩先で、猿野が止まった。犬飼もそれに合わせて足を止める。犬飼は帰路で初めて猿野の顔を見た。
駅あっちだよな?じゃあ、俺、こっちだから。
いつもと変わらない口調と顔で猿野はそういって、軽く手を上げてそのまままっすぐと進んでいく猿野の背中を、しんしんと鳴き始めた虫の音の中、犬飼はただぼんやりと見ていた。

(どこがチャラだ。)
少しずつ遠ざかっていく猿野の背中を見ながら、犬飼は唇を噛んだ。
(どう考えてもお前の方が足りてねえじゃねぇか。)
水をかけるという点については、まあチャラだと言ってしまって問題は無い。水をかけてきたのは猿野であったし、犬飼もそれにきっちりと復讐してやった、と思っている。その点はいい。だがその後はどうだ。
犬飼はその日が猿野の誕生日であると言うことを知らず(それは犬飼は別にいいだろうと思ってはいるのだが)、しかも誕生日であるが故に猿野が親友からもらったという誕生日プレゼントというものを、冷やし中華であったとはいえ、犬飼は台無しにしたのである。それに対する猿野の反撃は、岡本への意味の無い愚痴だ。
例えばここでこのまま、そうかチャラか、と言って犬飼自身がこの過不足に気付かない振りをしたとして、果たして綺麗さっぱりとあの冷やし中華の事とかそれに付随する様々な思いを、忘れる事が出来るだろうか、というのが問題だった。犬飼は、自分自身それが可能かどうか、というのを、直感的に知っていた。


あの時被っていて、そしてあれきり使わなかったゴムキャップは、昔辰羅川と買いに行った左利き用の布切りばさみで、ちょきちょきと細かく切って、ゴミ箱に捨てた。


正しいとか正しくないだとか。
そういうものを子供に教えるようには誰ひとり、切り捨てられない何かについて、対処の仕方を教えてくれはしなかった。
一度だけ、犬飼はガキの頃に大神さんにそのような類のことを聞いてみた事があるのだが(確か御柳と喧嘩をしたのだ)、それもまた、笑い飛ばされておわっていた。
ただ、大神さんは馬鹿みたいに笑いながら、からかう様に言ったのだ。

『いぬかい、そういう事はな、自分でなんとか手離さねえように、努力すんだよ』




犬飼は、随分と小さくなった背中に追いつくために、駅とは逆方向に走り出した。
例えそれがどんなにばかばかしくても、屈辱的でも、惨めでも。

手離しては、いけないのだ。





→第四話へ


犬飼くんの不器用さの具現化。