に吼える   2




結局誕生日のその日まで試験だレポートだと地味に過ごしてしまい、当然みたいに恋人なんかできなかった。
誕生日には寂しかった思い出が多い。いつも一人だったというわけじゃない。
けれど、嬉しいと思えたことは少なかった。どうしてだろう。
俺は生まれてきてよかったと思っているし、楽しくのびのび生きていこうと思っている。
きっと、本当は誕生日は嬉しくて楽しいものだ。そう信じている。そうなるべくいろいろと努力もしてきた。
今年には必ず。今年には。今年こそは。……来年はきっと……


「今年も孤独の誕生日かな……」

大学帰りにぼやいて、そういや居候がいたと思い出した。

犬男はそのまま居座って、だらだらと家に居る。
飯も食う。
牛乳は一日一リットル飲む。一日170円余計にかかる計算だ。水でも飲んでろと言いたくなったが、このガタイにカルシウムとらせないのもなんだか可哀相で黙っている。
会話はほとんどない。試験中ということもあって追い出すにも労力を割きたくなかった。食わせるのにちょっと金がかかるくらいで、邪魔をするわけでもないので放っておいている。朝昼は勝手に食うし、夜は叩き起こして食わせて、少し噛み合わない話をして、俺は寝る。 日中の奴は何もせず寝ているらしい。
夜は、気配からすると起きているようだった。何をしているわけではないが、ぼんやりと床に座って、寝ている俺を見ていたんじゃないかと思う。

そういや、夏だからって毛布一枚で床に寝させていた。
あいつがうちに来たのは…………先週の日曜日。だからもう、一週間以上あいつは床の上生活だ。
昼間は俺の布団に潜り込んでもよさそうなもんだが、記憶を手繰ってみても、今朝も昨日もいつもの布団からは自分自身の匂いしかしなかったような。
この際客用布団の一組でも買うべきだろうか。
いや待て。あいつこのまま居ついたらどうすんだよ。
そもそも、今日には追い出すつもりだったじゃねえか。

何と言えばすんなり出て行くだろう。
考え込みながら、足がまっすぐアパートに向かっていることに気づいて、慌てて引き返した。
彼女作って楽しむと宣言した手前、明るいうちからあいつのいる部屋に帰るのはごめんだ。






まだ試験中で誰かと飲みに行くというわけにもいかなくて、図書館で爆睡の後ゲーセンで散在と、なんとも味のない時間の潰し方をしてしまう。アパートに帰ったのは、日付の変わる直前だった。
ドアを開けてぎょっとする。

犬男が玄関に座り込んでいた。

「おまっ……」
電気くらい点けとけや、という喚きを飲み込んだ。
暗闇の中、ふんわりと笑う気配がしたからだ。

「帰ってこないかと思った」

静かに立ち上がって優しく頬に触れてきた手に、何故か、切なさ、のような感情が湧き上がる。
この手が……嬉しい? 悔しい? ような。ほっとする……安心、するような。愛されてると感じるような。

おかしいだろう俺。こんな、こんな、名前も知らないような正体不明の男に。

「お前っ……」
「ん?」
「……い、つ出ていくんだよ」
「ああ、」

触れているだけだった手がそっと頬を撫ぜ、耳を辿り、首の後ろに回った。
そっと引き寄せられ、男の肩に鼻先があたった。

「朝には、出て行く」
「そうかよ」
「それまでは、居る」
「そうかよ……」
「ああ」

行っちまうのか。
なんとなく寂しくなって、首筋に頭を預けた。オレのほうから、擦り寄るような形になる。
何を話したわけでもなく、何を一緒こなしたわけでもなく、ほんの少しの間、場所を共有しただけのいきもの。
出て行くと言われてから情が湧くってのは、変だよなあ。

「帰るとこ、あんのか?」
「さあな」
「ないのかよ」
「帰らなきゃ、ならなくは、ある」
「なんだそれ」
「なんだろうな」

笑いやがって。

「お前、何で怪我してたんだ」
「焦ってて、ちょっとヘマした。もうなんともねえ」
「…それは見りゃわかるんだけどよ……ヘマって何だ? 何したんだ?」
「アー」
「つかお前何者?」
「アー」
「発声練習かっつうの」
「アー、ハハ」
「答えろって」

胸を突き放して、目をのぞいた。
暗い中でもほんのりと浮かぶ、月色の眼。
じっと睨みつけていると、照れたように目を伏せて、もそ、と口を開いた。
いやそれキモいから。

「とりあえず、なんつうか、お前とはちょっと縁があって。そんだけだ」

アー。
がっくりと俺は天を仰いだ。ダメだこいつは。
こいつがただの血小板がちと多い人間でも万万が一人外のなんかでも、俺が納得できるような説明はできないに違いない。

なんかもういいや。と男を押しのけて部屋に上がった。

がちゃ、とさっき買ってきたコンビニの袋を床に置いて、カバンを適当に放り投げた。
寂しくても酒盛りは外せないだろうと思って大量に買い込んできたものを卓袱台に広げる。
「俺飲むけど。お前も飲む?」
「いや、俺は」
「んだよー付き合いワリイ……」

心底悲しくなってきて、いっそこのままフテ寝しようかと缶ビール片手に真剣に考えた。
だから男が俺の隣に来て座ったのに気づかず。



「誕生日おめでとう、猿野天国」




その言葉が居候の口から出たものだと理解するのに、しばらくかかった。
なんだそりゃサプライズか。そういや今日俺誰にもおめでとうとか言われてねえ。親からメールは来たけど。
お前は俺の誕生日を祝うために振って湧いた物の怪か。いやそんなまさか。

「……お前、それ言いに来たの?」

ぽろっと出た唐突な言葉。
なのにすんなりと、うん、と頷いた物の怪に思わず抱きついた。
訳もなく……きっと嬉しかったのだ。

「とりあえず、誕生日だし、ハタチのだし、新月だし、来た」
「……新月関係あんのかよ?」

フン、と鼻で肯定するのが犬くせえ。
ぎこちない手が背中から上がってきて、襟足の髪をくしゃくしゃされた。



「言ったろ。新月はハツジョウキだって」





   片割れを探す時だ。
   お前、呼ぶだろう?
   寂しがって呼ぶだろう?

   片目で月を探すだろう?
   誰を呼んでるかも 自分で知らないで





耳元で囁く低い声。
そうだな。俺はずっと発情めいて、何か求めていた。
忘れ物を思い出せない焦燥だったんだろうか。


「また会おうなんて俺が言ったから、お前は振り返ってばっかりで、となりに誰もいねえ」




   お前がさみしいと俺もさみしい。





耳が拾う声と、頭だか、心だか、に直接響く 感情と、両方が近くにあった。



「だから我慢できねえで、会いに来たのに、お前は……いや、」
「何」
「いいんだ」

「……俺、お前を呼んでたのか?」
「……さあ?」
「でもシカトしたんだ、あの夜」
「…………」


いろんなわやくちゃが俺を混乱させて、でもなんだか、こいつにまで寂しい思いをさせたのだということだけが、はっきりとわかった。
シカトしたし、ビビったし、10日近くも傍に置きながら何にも気づかなかった。あんな夢まで見たくせに。

毎夜月の遠ざかる音に耳をすませて、コイツは俺を見守っていたのに。




「いや、だ。行くなよ」



朝には出て行くとお前は。
行かないで。
行かないでください。

なあ、やっと会えたんだろう?



男はやんわり笑った。
その笑みは何だ。
黙って行ってしまうのか。
かなえてくれるのか。
言って。
言ってくれよ。

あのときのように。




男の首にぎゅーっとしがみついて、ぎゅーっとされかえされた。
片割れと、時間を空けて生まれた月で繋がった双子と、また会う約束をしたいと願った。




















気づいたときには、ごく普通の夏の朝が来ていた。
日の出前の、明るい空。
慌てて部屋を見回した。あいつは―――――いない。

毟り取るようにカーテンを開け、窓を開けた。
路上に黒い犬がいて、立ち去ろうとするところだった。


「おーい!」
早朝のご近所の迷惑は、あの、昨日だったけど誕生日なんで見過ごしてやってください、と腹で呟きつつ声を張り上げた。

犬はちょっとだけ振り返って、一回だけ尻尾を振った。
それから、とことこと朝の町に消えていった。


今度は俺が、見送った。


「じゃーなー!」



後姿に加えた言葉はそれだけ。

絶対だと、念を押すことはしなかった。
あいつは約束を守るだろう。




おしまい...


で、あいつ何者だったんだ?