に吼える   2



あんたが産まれたのは月の綺麗な夜だったよ。
逆子で中々出てこなくってね。
おまけにへその緒が変な風に絡まっちゃって、首に巻き付いてたの。
ほどくのがそりゃもう大変でね、ほら、出しながらでしょ、難しいのよ。
それでやっと出てきたと思ったら、今度はちっとも泣かなくて。
お医者さんがね、母さんの目の前であんたの足掴んで逆さにして、頑張れーって言いながら背中叩いてるの。
あんた顔真っ青だし、お医者さん必死だし、死んじゃうんじゃないかって、あの時母さん
大泣きしちゃったわよ。処置台の上で。大股開きながら。
ああ、やだもう。今でも恥ずかしいったら。
でもね。びっくりなのよ。
母さんがわあわあ泣いた途端、あんた、弾かれたみたいに身体をビクンってして。
わあわあ泣き出したの。
そりゃもう大きな声でね。分娩室中に響き渡るような泣き声よ。
月の綺麗な夜でね。
なんでだかわかんないけど、母さんあの日、あのお月様があんたの事守ってくれたような気がした。
黄色くて、細くて、くっきりしてて、強そうな月だったなあ。
ねえ。あんたは信じないかもしれないけど。
あのお月様はきっと、あんたの神様だったのよ。















ラーメン探しに駅前に繰り出したはずが、俺は今、家でマックのハンバーガーを齧っている。
男は途中まで従順に後ろを付いてきた。
しかし何を思ったか途中、急に立ち止まって店を、マックを指定しだしたから驚きだ。その時男は
鼻を鳴らしていたので、どうやら匂いが好みだったらしい。
隣の男は真剣に、そりゃもう真剣にハンバーガーのパッケージを剥がしにかかっている。
ポテトは部屋の端に避けられている。さっき舌を火傷したからだろう。バカだ、と俺は思う。
本当に、こいつは何なんだろう。
食べ終わったクズを片付けつつ、俺の視線はどうしても目の前の奇妙な男に注がれてしまう。
分かった事といえば頭がおかしい事ぐらいだ。
一挙一動が不自然で、たまに見せる顔が獣染みている。正直気味が悪い。
こいつを何となく恐怖に感じている自分も、俺はなんだか許せなかった。
それにあの眼。
いつか、どこだったかで、俺はこの眼を見たような気がしていた。
何も映さない空洞の、黄色い、丸い、そう、まるで、月、みたいな。
パッケージを剥がし終えた男は満足したのか、しばらくソースの滴るハンバーガーを見つめていた。
そしてふと思い立ったように顔を上げ。
ハンバーガー目掛け、ぐあっと口を開ける。そのまま勢いよく齧り付き。
「うおっ、おま、ちょ、待て!」
噛み千切ろうとしたところで、俺は男の襟首をガシッと掴み上げた。
すでに犬歯がパンや肉にかなりの勢いで食い込んでいたが、どうどう、と言って外させる。
男はいかにも気分を害された、という風に不遜な視線を寄越してきたが、俺は今度こそ
怯まなかった。ソースとマヨネーズが口の端についてりゃ当然だ。
俺は頭痛のする頭を抱えながら紙袋を漁った。ナプキンを取り出して広げる。
バカだ。本当に。
ビビってるくせに、気味悪いのに、何で俺はこんな男の世話を焼いてるんだろう。
「お前メシの食い方知らねえのか?」
ナプキンで口元を乱暴に拭ってやる。
にしてはさっき俺のカフェラテものすごい良い姿勢で飲んでたよな。
されるがままになっている犬野郎は、聞き取りにくい声でぼそぼそと呟いた。
「…コレは初めて食う」
「あーそう」
「うまい」
「そうか?まあたまに食べるとうまいかもな」
「うまい」
「うっせえわかったよハゲ。ほら喰え」
四等分にしたハンバーガーを差し出すと、男は怪訝な顔でそれを見た。
指の形がついているのが気になったのだろうか。手千切りだからしょうがねえだろ文句あるか。
箸でぶっ刺して一つを突き出す。
「喰え」
腹が減っているのは知っている。
どこから来たのか知らないが、ひどい目にあったのは確かだろう。
朝飯を食わせた時も尋常じゃない食いつき方をしていたし、着ていた服だって血と泥で薄汚れてボロボロだった。
何よりあの足の傷。相当深かった。
血でよく見えなかったけど、切り口は鋭かったと思う。きれいに切れていた。あれは
かなり切れ味のいい刃物でないとそう出来ないだろうと思う。
ハンバーガーを食べ終えた男は、暢気にも座ったままうとうとと舟を漕ぎ始めた。
そこから、多分無意識に身体を丸め、足を庇う様に抱える。もうほとんど傷の見えない足を。
「…喰ったら寝る、かよ。マジで犬かテメエ」
言いながら、俺は男の傷にそっと触れていた。
固い、かさかさとした感触。
朝は盛り上がってパックリ割れていた足の傷が、昼にはもう塞がって瘡蓋になっている。
さっきはふざけて言ったが、これは舐めて治すなんてレベルじゃない。
背筋がぶるりと震えたのがわかった。
俺はとっさに手を離す。窓際までどかどかと数歩歩き、落ち着こうと試みるがそれもままならない。
夏の暑さにやられたってことにしておこう。あいつは人よりちょっと血小板の多い人間
なんだ。なんかもう、そういうことにしておこう。
そう思おうとするのに、あれ、こいつなんで俺の部屋にいるんだっけとか、つうか
あの傷の説明は、とか、肝心な所でまともな部分が問いかける。
昨日はバイトがあって。とても静かな夜で。
犬が付いてきた。月が妙に近しくて不気味だった。
それから














くらりと、視界が妙な感じにブレた。
頭が痛い。瞼が重い。
倒れこんだ畳の先に、寝ていたはずの男の裸足の足が見えた。
「…」
ああ、何を言ってるのかわからない。
降って来る言葉に耳を済ませようとしても、重々しい眠気がそれを拒む。
やっと聞こえたのは男の息だけで、それを合図に俺は瞼を閉じた。
それから朝になるまでずっと、変な夢を見た。






























『…』
誰だ。
『…』
誰だよ。
『…』
何だよ。見てんじゃねえよ。
『…』
何だよ。
『…』
…お前もそうなのか?
『…』
そっか。
『…』
俺も時間切れ。間に合わなかったんだ。
『…』
一生懸命走ったけどよ。
『…』
しょうがねえか。
『…』
ああ、頑張ってる。
『…』
すげえ、聞こえる。声。
『…』
…産まれたかったなあ。
『…』
お前もそうだろ?
『…』
…産まれたくなかったのか?
『…』
お前は、喋んねえなあ。
『…』
…泣いてる。
『…』
“オカアサン”
『…』
…。
『…イケ』
え?
『行け』
…道、
『走れ』
…道…道だ!道だ!
『行け』
でもお前、
『行け』
お前の分は?
『…』
お、
『後で行く』
…ほんとか?
『ああ』
ほんとにか?
『ああ。もう行け。早く』
約束だぞ、絶対に。
『ああ』
絶対。
『ああ』















また会おう。






























闇の中に浮かんだ目が琥珀色できれいだった。
声は低く掠れていたけど、
背中を押した手は暖かかった。
夢中になって光の中を走ったから、
それからどうなったのかはあんまり覚えてない。





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生まれる前から決まっていたこと