に吼える   2



シャワーを浴びて部屋に戻ると、ただでさえ狭かった六畳が涙を誘う窮屈さで俺の帰りを待っていた。
食うもん食って、満足げに寝転がっている男のせいだった。
どけやコラ、と足蹴にする。
ちら、と目だけを動かして、それ以上男は何も応えようとしなかった。

「なんだオマエ、喋れねぇのか」
「……」
「面倒臭ぇな」

幸い今日は何の予定もない。だけど、明日になれば学校が始まる。
取る物もない家だが、見知らぬ男に自分の不在まで許す気はない。

何があったか知らねぇけど、今日中に都合つけて、出てってくれよ。

そう云いかけて、だけどまだ完全に塞ぎきっていない赤黒い傷口に、それを思い留まった。

「どうすっかな……」

お前、どっから来たとか、それもわかんねぇの?

途方に暮れて訊ねた俺に、男は眼をやんわりと細めた。
次いで、左の人差し指で窓を指す。 
つられて首をひねると、指し示したその先には、青くけぶる空が広がるだけ。

最悪だ。

「…バカかテメェ、真面目に答えろよ」

どこの病院から来たかって、聞いてんだよ。

負けじと俺も人差し指を振り回した。頭上にクルクルと円を描いて、嘲笑ってやる。
だけど、男はそれを鼻で笑っておもむろに体を起こすと、傷ついた脚を引き寄せその跡に舌を這わせた。

「………」

ぴちゃぴちゃ、と水音が鳴る。
どこかで聞いた音だった。考える間もなくそれはすぐに思い当たり、夢を思い出した俺は首をすくめた。
ぴちゃぴちゃ、と男はその舌で傷を舐める。小さく開いた口端から赤黒いものが見え隠れするたびに、俺の首筋に妙な感覚が走っては消える。

だよな。あれは夢だったよな?

黒い犬が追いかけてきて、月が笑っていた。
あの犬もびっこを引いていたけれど、それとこの男の傷が、なぜ俺の中でリンクする。

そうだ。あれは夢だった。
だって、追いかけながら、あの犬はなんと俺に弁明した?



(来たくて来たのではない。次の新月が迫っている。それに間に合わせて降りてきた)



新月に、何があるって?







(―――――ハツジョウキ)







「……アホか俺」

自分で自分に失笑だ。7月で夏バテか?根性見せろや若人が。
俺はおもむろにPCの電源を入れた。男はやっぱりチラッと俺を伺って、だけどそれまでだった。
いいぜ?あくまで犬の振りしたがるんなら、つきあってやるぜ?
ペティグリーチャムだかなんだか知らねぇが、それこそ死にたくなるほど食わしてやる。

現代を崖っぷちギリギリ最先端で生きる俺様がよもやそんな世迷言を信じたわけでもあるまいが、まぁ、ここはアレだ。95%嫌がらせ、3%ただの好奇心、1.9%以上のその場のノリと…えーとなんつーの?…0.1%以下の有事に備えて、ここはひとつYAHOOに頼るのも賢かろう。
手始めに、検索欄に《犬 飼いかた》と打って、差し出される情報を待った。……と、出る出る。
《賢い犬の飼い方》なんていかにもなタイトルにマウスをあわせて、エンターキーを軽く一押し。

「ほほう…食事の回数は一日で1,2回…経済的じゃねぇか。
糖分・塩分・脂肪分の摂取は控えめに…知るか、中年のオヤジかっつーの。
牛乳は下すこともあるので、少しずつ慣らしましょう…下すんなら飲むな、て、オマエ!」

背後に気配を感じて振り返った先、男がひとの冷蔵庫を勝手に漁っていやがった。
男の左手には、俺が大切に大切にとっておいた日曜夜のお楽しみ。ファミマでスタバなシアトルラテ。
や、まさか、まさかだよなと思う間もなく、何開けてんの、何傾けてんの、待ったのポーズで固まった俺をよそに、ぐびりぐびりと一気に干して、男は満足げにぷはぁと一息。

「テメェふざけんなよそれ一個いくらだと思ってんだよクソ野郎!つかマジでクソとかやばくねぇ!?」

牛乳ハ下スコトモアルノデ、少シズツ慣ラシマショウ。
焦って、《食事について》の頁にマウスを走らせる。が、カフェラテを飲んだ犬に対する処置が見当たらない。意味ねぇ。意味ねぇし使えねぇ。
応急処置の頁を探そうと、NEXT→をワンクリック。
出てきた頁タイトルは《運動と入浴について》。
そこでまさかの、



「散歩は一日2回…フンは必ず飼い主が始末すること…フンは必ず…飼い主が?…ビニール袋を手袋代わりにすれば手は汚れません、て…」

初心者なのにスカトロプレイ。



ヤバイ。奮発してドライじゃなくて生のドックフード食わしたれとか笑ってる場合じゃない。
くらくらしながら再び男へ顔を向けると、いつからこっちを伺っていたのか、まっすぐ男と眼があった。

月と同じ眼。
真昼のそれは気怠くおぼろで、あの赤々と揺らいでいた月の気配を消していた。
見ようによっては、柔らかな眼差しだ。
男のその目に感情はなく、男がじっと見つめてくる先に、俺がいるのかもわからない。

至って、無感動、無関心。
だけど逆にそれが、怖ろしい。
だってそうだろ。



真昼の月って、大概そうやってぼやけて滲んで、うそぶいて浮かんでるじゃねぇか。



ちくしょう。男がゆっくりと近づいてくる。目を細めてゆっくりと。
まともに立てば、俺よりずっと体格が良いのが見て取れた。そのせいで電球の傘に髪が触る。
光りを通せば銀色に輝く髪だ。顔に落ちた影のせいで鼻梁が高く見える。
そういえば、脚のびっこがいくらか治っている。舐めて治したってか、ちくしょうが。

「……なんだよ、治ったんなら、」

不覚にも、声が震えた。
掠れてしまった語尾に、ぐびりと咽喉を鳴らす。しきりなおして、出てけ、というはずが、男が口を開いたせいで、タイミングを奪われた。
とりあえず、と男がぶっきらぼうに声を出した。低い声だ。だけど、犬の声ではなかった。



「とりあえず、食事は一日3回。味付けの好みは特にねぇ。牛乳系の飲み物は大好きだ。トイレは自分で行くからいい」



どけ、と男に脚を跨がれ、呆気に取られてその背を無言で見送る。
男は当然のように右の便所へ消えていったけれど、鍵の音がしたかどうかは定かではない。
ぷしゅ、と脳内で音がして、一気に腰の力が砕けていった。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。

「野郎、バカにしやがって」

思い余ってキーボードを乱暴に叩いた勢いで、画面が次へと更新された。
何が《賢い犬と暮す方法》だ。《犬の生理周期及びその対策》だ。



「雄犬に発情期はありません…発情期の雌犬に誘発されて、遠吠えや脱走などの問題行動をひきおこすことはあります…」



……結局、俺は思いっきり夏バテだったわけだ。
やってらんねぇ、と寝転がって時計を見上げると、もう2時を回っていた。ふざけた朝飯で誤魔化した腹が、急にグルルと音を立てる。
ユニットバスの向こうから、水洗の音が響いて聞こえた。
のけぞってそっちを覗くと、明らかに手を洗っていない様子の男が見えた。

「よぉ、ならラーメン喰えんだろ。買い物ついでに駅前行こうぜ。腹減った」

声をかけたら、この期に及んで男は怪訝な顔をした。
ふん、よく見たら小奇麗な面しやがって。どうせホストかなんかがオンナの取り合いで揉めて逃げてきたクチなんだろ。

「オマエだって、食パンだけで腹もたねぇだろ?犬」

俺はやっと安心して、男に近寄り、バンとその背中を叩いて追い抜いた。
だらしなくもヨロヨロよろけて、それでも男は黙って俺についてくる。



「ま、いーや。俺今度の誕生日までに絶対彼女作るから、それまでな」



そうやって、振り返りもしないで笑った俺の後ろ。
真昼の月がどんなふうに嘲笑ったかなんて、俺が知るはずもなかった。




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若干いかがわしさを狙ってみました。