に吼える



ツタヤの深夜バイトは、時給が良くて曜日と時間があっていたという事と、アパートから近い、という理由で面接を受けた。前のバイトをやめたところだったので、丁度よかった、というのもある。たまたまビデオを返しに行ったときに掲示していた募集要項を見たのが事の発端だ。深夜バイト、といっても午前1時までで、10時から3時間、週に三回入っている。土曜か日曜のどちらでもいいのでどちらかに必ず一回入る、という条件だったので、土曜をとった。日曜は一日中だらだらしたり、誰かに誘われれば遊びに行き、切羽詰まったレポートがあるときはただひたすらそれをこなす、そんな日として決めていたからだ。
今日は土曜で(あ、もう日曜だけど)、今は午前1時半で、要するに俺のスケジュールとしてはもう家に帰って風呂から出てしまって、明日することもないし、と思いながら、布団の上で強でつけた扇風機に当たっている最中、の筈だった。

(なんだっていうんだ。畜生。)
さっきから、犬が後ろについてきている。
もう後ろは振り向かないことにした。気配がするので振り返るまでもない。ず、と尾と足を引きずる音が聞こえた。俺は足を速める。昼よりは随分と涼しいがそれでも夏だ。額にじっとりと汗が滲んだ。
こんな筈じゃなかった、と思う。そもそも、俺はついさっきまでこんな予定ではなかったのだ。俺は今頃扇風機で涼んでいて、汗が引いたらそのままタイマーをかけて就寝、そんなはずだったのに。

空き地へ向かう角を曲がった。少し早歩きで一本目の電柱まで歩いて、ちら、と後ろを振り返った。ちょうど、犬が角を曲がったところだった。慌てて俺は前へ向きなおる。目が、合った気が、する。暑いはずなのにどこか背中のあたりが冷たかった。
(部屋に帰ろう。)
きりが無い、と思った。十五分間、ずっとアパートの周りを大きく囲うように歩いて振り払おうとしてきたのだが、一向にどこかへ行ってくれる様子はない。もういい。ついてくるなら、勝手にすればいい。俺はこのままふりきって、部屋に篭ってしまえばいいだけだ。俺についてくるお前が悪いんだ。お前にえさなんかやった覚えはないし、そもそも俺はお前みたいな犬なんか見た事は、ないのに。
びっこを引いている犬だった。黒、灰色、もしくは間の色をした体の、どちらかと言えば大型の犬だ。目が何かの色に似ている、と思ったが、何に似ているか解らなかった。

アパートの方向に向き直った。ぽつぽつと草が申し訳程度に生えた空き地に沿って曲がる。
開けた視界の片方に広がったのは、少し赤みを帯びて黄色が燈赤に近づいている、大きな、月だ。
ああ、これだ。俺はやっと思い当たった。これ、あいつの目の色だ。
同時に、どこか遠く昔に、この色の記憶があるような気がした。
琥珀のような、優しい、いろ。



後ろで犬が遠く吠えた。車の通らない路地で歩く音と虫の鳴く声だけしかなかった静寂を破る声に驚いてしまって、ほんの少しだけ振り返ると、犬は、四肢を地面に突き立てて、空に浮ぶ、目と同じ色の、どういうわけかいつもよりも大きな月を仰いでいた。仰いだまま、吠える。
透き通っていて、くずれそうな、かなしげで、どこかおびえた声。

もう俺は振り返らなかった。そのまま殆ど走ってアパートまで戻って、ドアを閉め、そのまま服を脱いでシャワーを浴びて汗を流した。ざかざかと髪を洗って、出て、軽く拭いてジャージを着て、髪も乾かさないまま敷きっぱなしの布団にもぐりこんで、頭からタオルケットを被った。そこまでを殆どノンストップに、流れるように終わらせた。すべての、最低限にするべき事が終わってしまったというのに、俺はすぐに寝られなかった。考える暇を持ちたくなくて流れるようにすべてを終わらせたのに、終わってしまってからの暇を持て余すなんて。
最悪だ。最低だ。
俺は自棄になって目を固く閉じた。

さっきの光景が瞼の裏あたりに蘇る。犬が吠える。月に向かって吠える。吠え声にあわせるように月が笑った。嘲笑った、のかもしれなかった。俺は怖くなって逃げ出した。どこまでも追いかけてくるのは犬ではなく月だ。いきものを思わせる艶かしい色を呈した不恰好な大きな月は、いつまで経っても俺から離れず行く手を阻み、ずっと笑っている。俺は走った。どこまでも走っているのに一向に俺の帰るべき場所にたどり着かず、どこをどう走っているのかも解らずにがむしゃらに走る、おれはどこへいくんだろう、とよぎったがそれも流れ去った。ただ逃げる。ただ走る。足ががたがたになって、喉がひゅうひゅうと言い、口に血の味が滲んでくる。それでも月は笑っている。笑ってなんでもないように俺を阻む。もうだめだ、と思ったときに建物が見えた。俺はもう何も考えずに駆け込んだ。ばたん、とドアを閉めて玄関にへたり込むと、中にさっきの犬が居た。自分の認識外の物にたいする少しの恐怖のようなものは払拭しきれていなかったが、それでも、よくも、と俺がへたりこんだまま犬を睨みつけると、犬はおびえたように近寄ってきて、すまない、とでも言うようにほんの少しだけ俺の首に滲んだ汗を舐めた。舐められながら見上げた傍の窓から月が見えた。
月は穏やかに、遠くで、笑っていた。



だるい体を起こしてみると、外はもう明るかった。どうやらあのまま寝てしまっていたようで、気持ち悪いじっとりとした汗をかいていた。時間は、と思って時計がかけてある部屋の隅を見ると、時計の下辺りに男が寝ていた。見知らぬ男だった。長身で、色が浅黒く、髪の色は綺麗な銀色で、酷く整った顔をしていて、片足には血が滲んでいる。
「おい、」
俺は声をかけた。男はびくりとしてからばっと跳ねるように飛び起きた。そのまま身構えるようにして俺のほうを睨んだが、そこで男の腹がぐう、と鳴った。思わず頬が緩んでしまう。ますます睨まれるが、俺は顔が笑ってしまうのをやめられない。
俺を睨みつける男の目は、赤が滲んだ月の色をしていた。ちょうど昨日の月のような、黄色に近い橙赤。
いつかわからない記憶の、優しい琥珀のような、いろ、の。

なんで昨日追っ払ったのにここにいんのかしんねえけど、
「なんか食うか、わんこ」
呆れ笑いながら言う俺に、昨日の犬、もとい男は、怪訝そうな顔をして眉間の皺を深めたまま、それでも俺の問いかけを無視する事はなく、ほんの少しだけ頷いた。
俺はまた笑ってしまった。




→第二話へ


夏はやっぱりホラーですよね。…ホラーですよ。