予報どおりの激しい雷雨だった。
 雨ならば多少降っていてもそのまま試合ができるが、雷となれば即、中断となる。
 雷鳴が耳に届いた瞬間、ほとんどのものが舌打ちをせずにはいられなかった。
 盛り上がった気持ちも体も翌日以降に持ち越しだ。
 雨ごとき、雷ごときに妨げられるような想いではないものを。

 グラウンドに向かうこの熱。



          嵐が丘






 乗ってきたバスでそのままのUターンを余儀なくされ、十二支の体育館内で軽いストレッチとミーティングの後、解散となる。
 しっとりと湿気を吸った制服はわずらわしく、そして重ね着しなければならないユニフォームと比べれば軽々しい。まだ体のうちに残る高揚感、にそぐわないことこの上なかった。
「ちえー。せっかく兄ちゃんの誕生日だったのにねえ」
 兎丸が口を尖らせる。
 大抵の運動部は荷物が多いが、野球部は特に多い。小柄な兎丸がぱんぱんのスポーツバッグを抱え上げると、体が隠れてしまいそうだった。
「ほんと残念っすね。準決勝突破でお祝いしたかったのに」
 子津の言葉に司馬が頷き、それにわずかに犬飼が鼻を鳴らして笑った。

「誕生日だから雨降ったんじゃね? こいつ雨男らしいし」
「ありうるーぅ!」
 野木が太い指で本日の主役を指し、上尾が便乗してはしゃぎながら身構えた。拗ねた猿野の反撃を予測してだ。
 だが猿野はテンションが低いようで、
「んモゥ〜ひ・どぉーい☆」
 付き合い程度に軽く明美化したのみだった。
 張り合いがなくて、茶化した二人のほうが若干拗ねた表情をする。
「まあまあ、丁度終盤で日程も詰まっていたことですし、いい中休みではありませんか。特にピッチャー陣は一昨日投げたばかりですし、野手の皆さんだって疲れが溜まっているでしょうし、恵みの雨と考えましょう。一日休めば怪我の危険も少なくなります」
「そりゃあ、そうだけどよー」
 不満げな面々に苦笑しながら、さて、と辰羅川は続けた。
「平日ならこの後お好み焼きでも、と言いたいところですが、天候が回復すれば明日すぐに試合です。今日は早く帰りましょう」
 促されて、校門に向かう。

「あ、オレ教室に忘れモンあったわ」
「何忘れたんすか?」
「一昨日ハシ箱だけ忘れてよ。取って来るわ。先帰ってていいぞー」
 待ってるっすよ、と言う子津に、
「や、沢松残ってたら一緒帰るからいいぜ。お疲れー」
 猿野は笑って手を振った。
 誕生日だから昔から一緒の沢松と過ごしたいのかもしれないし、猿野と一緒のときはいつもバス一駅分遠回りする子津に気を遣ったのかもしれない。だから誰も気にせずに、じゃあお先、といくらかは弱まりつつある雨の中を帰って行ったのだった。








 雨がぬるい。
 傘を投げ出して雨の中に踏み出してみれば、瞬く間に肩先から指先までがじっとりと濡れた。3分も立ち尽くしていれば下着までぐっしょりになるだろう。
 だが、ぬるい。
 もう雷鳴は遠かった。
 あの時とは違う、と思わずにおれなかった。
 この雨は体温を奪っていかない。それを苦手だと思った。まるで雨でないようではないか。雨など、冷たくあるのが良いのだ。

 甲子園に、きっといける、と微笑んでもらえたあの日や、伝説の痕にボールを叩き込んだあの日のように。



「……濡れ猿。冷えるぞ」
 後ろから差しかけられた傘は、黒のこうもり。
 ……だと思ったら待て待て待ちやがれ、ほねっこマークが何気についてるんですけど。こだわって犬っぷりかよ。
 これは誰のセンスなんですか。ママさんかウワサの怖い姉さんか、まさか本人か。
 いやツッコミどころはそこじゃない。
 このシチュエーションで差し出されるべき傘はあの人の花柄であってこいつではない。ほねっこでは断じてない。
「別に冷えねえよ。夏だし」
 特にこいつではいけない。オレから雨をよけるなんて。

 犬飼が何か後ろでごそごそと始めていたが、振り返りたくなかったのでそのままグラウンドを見つめていた。
 ほねっこの傘が視界の上のほうでわさわさ揺れている。

 春じゃない。
 もう春じゃない。
 この目障りなほねっこがその証だ。

「猿が鈍感なのは仕方ねえけど明日試合だ。体疲れさせんな。拭いとけ」
 しかもダメ押しのごとく、ばさり目の上に垂れかかるタオル。
 ふんわり触り心地よく、しかしほんのり犬臭がする。(金色のふわふわしたほうのじゃなくて、焦げててごつごつしたほうの)

「うへえ……てかうっせえ」
「何たそがれてたんだ」
「たそがれとか犬に言われたくない」
「とりあえず拭けよ」
 大きな左手がタオルの上に置かれて、不器用に同じところばかりがしがし擦る。


 試合中は何も考えなくていいが、こうやって休息を課せられた時、思う。
 いつまで、や、いつか、のことを。


 最初は、ただの恋、だったのに。
 いつの間にか自分を動かすのは恋だけではなく、シンプルだったはずの自分はごちゃごちゃとしたものに囲まれている。
 そして気がつけば、いくつも持ち物を失くしていた。
 ただのバカな自分や、無知ゆえの気楽さや、射殺すようなこいつの視線や。

 あれほど、「オレ」を強く見据える目と出会ったのはあれが初めてだった。
 こいつがあの目でもう一度自分を見ることは当分ないのだろう。
 それを惜しむ。
 やわらかな手のひらをプロローグに始まった春の、本質。冷たい雨。



 いつまでこの土の上にいられるだろう、と思う。
 長くてあとちょうど二年くらい。
 出会ってから3ヶ月以上過ぎてしまった。

 ここに居たいとどれほど望もうと、いずれ、淡々と流れる時間に定められ、引退し、卒業し、ここは居場所ではなくなる。


 どうせ去り行く場所なのに、
 これほど全てを尽くしたいと思うのは何故だろう



 このままで居させてくれと願う。いつまでも春であればいい。出会ったばかりの高揚が続くといい。季節など巡らなくていい。
 あの人の笑顔だけを欲して、こいつに睨みつけられたままでいい。
 立て続けにハレーションを起こした、あの人の笑顔、こいつの眼光。斬新で、強烈なもの。
 ずっと在って欲しいと願う人と、場所と、想いと。

 進んでいきたい気持ちと、それを上回る、とどまりたい気持ちと。
 板挟みを自覚すれば、苦しいばかりだ。
 試合の間は忘れていられる。
 バッターボックスに立てば、さらに、全てを忘れていられた。


「こういうの、気持ち悪い。早く試合したい」
「気持ちはわからんでもない」
 犬飼の手が一瞬止まった。
 犬の癖に苦笑なんかしやがって、むかつくんだって。


「犬、お前、早く、早く投げろよ」
 こいつから試合が始まる瞬間。あの緊張と高揚。ようやく解き放たれるような、歓喜。

「あー……わかった。明日は公式最速出してやる。誕生日だしな今日」
 いやそうじゃなくて、速くじゃなくて、早くなんだけど。
「出んのかよ。そう簡単に出っかよ。152キロなんて」
「出すぜ」



 笑う犬飼の目は、柔らかいが、強い光を放っていた。

 すとんと落ちるように、これも悪くはないなと、思った。
 春を惜しむ気持ちなどとっくに霞んだようになって、明日が待ちきれないと思った。























かのやより:
タイトルは椿/屋/四/重奏より。雨の話を書いてみたかったので。
一年越しのアップとなりまして……申し訳なくて……ほんと申し訳ない……!!
1から100まである彼らのうち、ほんの1コ2コを書くだけのつもりなのに、いざ頭に思い浮かべようとすると1から100までどぱーっと溢れて止まりませんでした。途方に暮れながらやっと掬ったのがこれだけ。彼らと付き合うにはやっぱり日々是精進のようです。
わんこ氏の球速については悩みに悩んだところですが化け物なのでまあこれくらいでいいかなと。

ところで先に帰ったはずのわんこ氏が何故ここにいるのか。
 ―――(1).たっつんが先に帰っちゃうほど呆れた忘れ物をしたから
 ―――(2).校舎裏のロマンスのナラの木まで呼び出されていたから
 ―――(3).猿野さんをストーキン
おこのみでどうぞ・